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Now I'm sixty-fourは歌にはならんな

Category : 1960年代/音楽

When I get older losing my hair
Many years from now
Will you still be sending me a valentine
Birthday greetings, bottle of wine?
If I'd been out till quarter to three
Would you lock the door?
Will you still need me, will you still feed me
When I'm sixty-four?

この歌を聴くたびに思うのは、作者のポール・マッカートニーは、作った当時、64歳になった自分をリアルに想像できていたのか、ということです。リアルというのはちょっと違うな。トータルにというべきか。まあ、「ともに白髪の生えるまで」みたいな類型的な理想夫婦像を歌ったポップ・ソングに、ちゃんと老後を想像していたのか、なんて問うのは野暮ですが、つい思ってしまうのですね。

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The Beatlesのアルバム『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』に収録の「When I'm sixty-four」。録音されたのは1966年、ポール24歳のときでした。『Sgt. Pepper's ~』は、ポップス史上初のコンセプト・アルバムと言われています。この年からライブ活動を止めてしまったビートルズ。
そこでポールが「その代わりといっちゃなんだが、架空のバンドが観客の前でショーを行うという構成のアルバムを作ろうよ」と、いかにもポールが言いそうなことを言いだしたとかで、制作が始まりました。ジョンは「えー、何それ、ダサイじゃん。やる気起きねーなーオレ」と、いかにもジョンが言いそうなことを言ったかどうかはわからない。このアルバムにジョン作品が少ないという点からきた私の妄想です。

で、アルバムコンセプトに合うと思ってか、ポールが十代の頃作っていた曲を引っ張り出してリニューアルし、このプロジェクトの初めの方で、チャチャッと2テイクくらいで録音したのが『ウェン・アイム・シックスティ・フォー』。クラリネットを入れたりの古き良き時代のミュージックホール的なアレンジは、この半年前に英国で大ヒットしたキンクスの『サニー・アフターヌーン』の影響もあるかな。

『サージェント・ペッパーズ~』は、リアルタイムではなく、5年くらい遅れて70年代前半に買ったのですが、その頃には既に絶対的名盤の評価が確立していたと記憶しています。しかし私にはあまりピンとこなかったな。ビートルズの他のアルバムに比べ、際立った曲が少ないという印象でした。『~シックスティ・フォー』も、私の中では、洒落てはいるけど地味などうでもいい小品、以上の位置ではなかったように思います、当時は。

それが、歳をとってふと気づくと、妙にお気に入りの曲になっていたのだな、これが。

若い頃は、ビートルズのなかでは絶対的ジョン・レノン派でした。繊細さと粗暴さがない交ぜになった、無防備で傷つきやすい人間像とその楽曲は、同じように不安定な青春期の人間にとっては、やはり魅力的です。折しも1970年前後。学生運動の高揚と急速な退潮に象徴される挫折感は、当時の若者には親しいものでした。ジョンはそんな時代に積極的に関わったヒーローでした。様々なメディアへの露出、発言や活動も、他メンバーに比べ突出していて、音楽以外の、社会・政治方面でのジョンに関する情報量も多かったな。その当時からすでに、時代に翻弄され気味のジョンの危うさ、みたいなものは伝わってきました。そこが痛々しくてまた魅力だったのです。

ポールはというと、どうしてもジョンの対極に置いてしまうのは仕方ないわけで、70年当時は、公開されたばかりの記録映画『レット・イット・ビー』での、お節介で仕切り過剰のウザいポールの姿が、強い印象を与えた時期で、ビートルズ解散の元凶と見なされていたところへ、2作の隠居的アルバム(『マッカートニー』『ラム』)を発表して、セールスは好調だったものの、進歩派・社会派(=ジョン好き)からの評価は、酷いものでした。甘めのポップソングばかりのポールは、私にも不要の存在でしたね。

それから幾星霜。50歳も過ぎて、遅ればせながら分別も少しつき、正義だけでは立ちゆかない世の中のほろ苦さも身に沁みだしたころ、なんか次第にポールのことが好きになってきたのです。その頃になるとビートルズ研究が進み、解散前後の事情を知ることができる資料も豊富になって、(バンド存続のため彼が心を砕いて努力したことなど)、ポールをきちんと評価できる環境が整ったこともあります。お節介、牽引役、めんどくさい嫌われるところを引き受ける彼のような人は世の中には必要なんだ、と解る年頃になったということです。え、遅すぎ?

そんな頃、『ウェン・アイム・シックスティ・フォー』を聴き直して、なんともキュートな曲やん、オレも歌いたいな、と思い、日本語詞をつけました。ポールが64歳になった頃です。冒頭に掲げた部分は次のようにしました。日本語と英語の音数の違いで、内容が半分くらいしか盛り込めない(笑)。

いまからうんと時は過ぎて ぼくがジイさんいなり
髪の毛が全部 抜けてしまっても
バレンタインの贈り物 君はくれるかな
64歳のぼくを 愛してくれるかな

これを知った我が娘は、「ポールとお父さんの30年目の和解やねえ」と言いました(笑)。

ここで最初の問い、本当にポールは64歳の自分を思い描けていたか、になるのです。
答えは、「ノー」やろうなあ。64歳になっても現役のロックンローラーで、老骨に鞭打ってツアーを回っているなんて、24歳の時には想像できないし、当時のロックの基準からすればあり得ないことやしね。やはりジジイはそれなりに枯れて、穏やかなリタイア生活をしているものだと漠然と思うものです。でも、実際の64歳は……。
ちょうど64歳でポールが妻と離婚した、なんて歌を裏切る皮肉な話題も沁みますね。

シマラナイままオチの時間となりました。ポールの64歳、なんてどうでもいいことが特に気になるのは、私が3日前に64歳になって、こんなハズじゃなかったぞと焦ったから、というのが、オチないオチ。こんなとはなんなんだ、どんなならよかったんだ、というツッコミについては、ぼちぼち考えます。本年も宜しくお願いします。













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消えたのは宮谷一彦ではなく私、か。

Category : 1970年代マンガ

ブログ休眠中も相変わらず70年代回帰は続いていました。最近は当時のマンガをポツポツ読み返していて、先日、宮谷一彦を、無性に読みたくなり、ネットオークションで落札しました。宮谷は、鈴木翁二、真崎守と並んで、私の70年代初期の記憶に絡みついた特別なマンガ家なのです。

70年春に横浜で暮らし始め、半年もする頃には、いっぱしのアングラ派になっていました。それまでの18年間を過ごした地元は単層文化的で、掘ってもそこにはアンダーグラウンドなんかありません。ボオ~ッとした田舎少年だったから在りかに気づかなかっただけかもしれませんが。

都会へ出たといっても、内気でコミュニケーション下手な性格ゆえ、アングラ系の人たちと交わってアブナイ遊びにどっぷりと、みたいなリュウ・ムラカミ的?なことにはまったくならなくて、とりあえず机上のアングラでしたね~。生身の人間に代わって都会の若者のカルチャーを教えてくれたのは、当時の先鋭的な週刊誌『朝日ジャーナル』でした。新聞奨学生として住み込んだのが、朝日新聞の販売所だったため、無料で読めたのだと思います。新聞店には同じ境遇の大学生が数名いましたが、皆ごくふつうの学生で、あの時代とぐっすり関わろうという姿勢の人はおりませんでしたから、孤独に本ばっかり読んで、人との関わりはそれほど持たぬまま、妄想的にラジカル?になってゆくのです。ジャーナルからは様々な影響を受けましたが、最たるものは、60歳を越えても抜けない、反権力・反体制的な視点でしょうか。特に具体的な行動を起こすわけではない、いわゆる心情左派ですが。当時のジャーナルは、大新聞社の雑誌とは思えないほどイケてました。以前取り上げた川本三郎が編集部に居た頃です。赤瀬川源平が連載『櫻画報』で「アカイ、アカイ、アサヒハ、アカイ」とやらかして大騒動となりましたが、自社への揶揄を掲載する度量が当時の編集陣にあったのですね。そんなジャーナルを窓として、社会のパースペクティブを得るようになった部分が大きいかなあ。

横浜に来て、2カ月後の70年6月に意外なほどあっさりと安保条約が延長され、11月には三島由紀夫が自衛隊に立て籠もり割腹自殺しました。68年頃から高揚した若い世代によるレジスタンスが、急速に退潮していくのが、新米の私にも感じられました。いわゆる学生運動は、この1年後の連合赤軍による陰惨なリンチ殺人事件をもって、完全に社会の支持を失ってしまいます。

そんな時代の雰囲気を敏感に反映したアンダーグラウンドなマンガを発表していたのが宮谷一彦で、私も強く引き込まれました。

もっとも印象に残っているのが写真掲載の『とうきょう屠民エレジー』。68年頃から次々と創刊された青年コミック誌の中で、1.5流という位置の『ヤングコミック』という雑誌に連載されました。東京で暮らす中年男性を主人公にした一話完結の読み切り連載。生活に挫折し破滅へと向かう中年男の悲哀は、変革への夢が破れた(学生世代にとっての)時代の雰囲気を掬い取って、数は少ないが熱狂的な支持を得ました。設定とストーリーも巧みで、これは後に弘兼憲史のヒット作『人間交差点』(原作は矢島正雄)『黄昏流星群』に影響を与えているようです(宮谷氏自身は、真似されたと立腹しています)。


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宮谷作品で圧倒的だったのは、その風景描写の画力です。都会の無機質な街並みが、望遠圧縮された奥行きの中にびっしりと精密に書き込まれています。細密描写が当たり前になった現在のレベルからみても、すごい。絵画的でない主題をことさら写真のように非絵画的に描き込むことで、描き手の存在を逆照射させる手法は、後のスーパーレアリズムを先取りしていたといえるかもしれません。風景を、登場人物の背景ではなく、意図された表現としてストーリーに組み込む手法は、宮谷氏が始めたものだとわれ、大友克洋に受け継がれ、圧倒的な表現として完成されます。

その大友氏が大マンガ家として声望を集めるのとは対照的に、宮谷氏は現在ではほぼ忘れ去られた存在となっています。この『とうきょう屠民エレジー』、雑誌掲載時以来、40数年ぶりに読んで、とても懐かしく、同時に少し恥ずかしい気持ちになりました。(あの時代の)青年だけが持ち得た、稚拙で傲慢だったと振り返って思える世界観にぴったり寄り添う宮谷マンガ。青年は歳を重ね、いつしか日和って、旧来の社会に紛れ込んでゆくのですが、宮谷氏はどうやらずっと同じところに止まって、そこを掘り下げようとしているようです。その姿勢こそが、私たちをして、70年代の亡霊として彼を忘れ去ろうとする要因になっているのでしょう。変わったのは私たちであって、宮谷氏ではない。彼の言葉に沿って言えば、宮谷氏が消えたのではなく、私たちが消えたのです。

相も変わらず浅く、こんなとこですが、このブログでマンガを取り上げるのは初めてです。音楽や文学と並んで、自分の人格形成にけっこう大きく影響したのがマンガなのになんでだろう? なんか吹っ切れたのかな。別に封印していたわけではないけど。マンガについて書くのは面白い。またやろう。






あの時、とでん西武からグレイスランドへ

Category : 1980年代音楽
このところ、ポール・サイモンにハマっています。先日、ジョギング中にWalkmanで彼のベストアルバムをかけたとき、それまで何度も耳にしたはずの「グレイスランド」が、ひどく鮮烈に響いたことがきっかけでした。
その朝はとても良い天気で、川のせせらぎに太陽光が反射し、「The mississippi delta was shining Like a national guitar(ミシシッピ・デルタはナショナル・ギターのように輝いていた)」という「グレイスランド」の冒頭の歌詞がとてもマッチして心地良く、足取りが弾んだのでした。

これはいいぞと感じ、帰宅してYouTubeで映像を捜したら、ちょうどそのときの気分に応えてくれる最高のライブ映像に当たりました。
2012年にハイドパークで開催された「ハード・ロック・コーリング」フェスでの、「グレイスランド~ユー・キャン・コール・ミー・アル」の演奏で、まあこれに激しく感動して、それまでは、曲単位では好きなのもあるけどミュージシャンとしてはまあまあそこそこ、という好感度だったのが、わずか一日で、猛烈なポール・サイモン・ファンになってしまったのでした。

2012年はアルバム『グレイスランド』発表25周年で、その記念企画としてポールは同作録音以来初めてその舞台となった南アフリカを再訪し、25年ぶりに現地の同作レコーディング・メンバーと再会し、セッションとライブを行いました。そのメンバーをそのままロンドンに伴っておこなったのが上記フェスでのライブだったのですから、『グレイスランド』演奏には最高のメンツで、その本物のノリに、観客も大熱狂。「コール・ミー・アル~」の大合唱シーンには鳥肌が立ってしまったぞね。

個人的に、この時点で彼が71歳であること、身長が160cmであることが、すごく励みになりますね(笑)。チビでジジイのオレも、あと10年ガンバロウと。

で、にわかポール・フリークと化し、その『グレイスランド』25周年記念盤、最新のライブBlu-ray、それから上記フェスでのポール・ライブの海賊盤DVDまでイッキに購入してしまいました。


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Live in New York City


25周年記念盤でCDとセットになっている映画『アンダー・アフリカン・スカイズ』のDVDが素晴らしい。これはポールが25年ぶりに南アフリカを再訪し、『グレイスランド』をめぐる人々と出来事を再確認するドキュメンタリーで、ハイライトとなるのは、当時の南アフリカの反アパルトヘイト運動の指導者とポールとの会談です。

『グレイスランド』誕生のよく知られた経緯をざっとおさらいします。

70年代後半からのポール・サイモンは、アルバム『ワン・トリック・ポニー』『ハーツ・アンド・ボーンズ』が続けて商業的に失敗し、音楽シーンがパンク・ニューウェイブへと移行したこともあり、もはや過去の人となりかけていました。苦境の中で次の方向を模索していた84年頃、彼は1本のカセットテープと出会います。南アフリカの地域音楽を録音したテープでした。それはポールの心を強く惹きつけ、数ヶ月間そればかり聞き続けたといいます。情報を収集し、他の南アフリカ音楽をも聴いてゆくうち、彼はどうしても現地に行ってそれらを録音し、そこから何かを始めたいと強く思うようになります。
当時の南アフリカ共和国は、アパルトヘイト(人種隔離政策)のため、国連による文化ボイコット制裁を受けていました。そこでポールは、南ア事情に通じているハリー・ベラフォンテらに相談します。彼らのアドバイスは、民族解放団体に根回しして了解をとりつけろ、という主旨でした。しかし、音楽が政治的思惑に左右されることに納得がいかないポールはこれを拒否して、直接南アフリカの黒人ミュージシャンの意向をリサーチします。彼らの回答は、ポールを南アに迎えて一緒に録音したい、というものでした。
ポールは南アに行き、地元ミュージシャンと2週間セッションし、数々のトラックをを録音します。それを持ち帰り、編集とアレンジ、歌詞を加えてから、南アのミュージシャンをニューヨークに招き、作品を完成させました。
こうして作られたアルバム『グレイスランド』が1987年に発売されると、その斬新な音楽性が受け入れられ世界中で大ヒットとなりました。
ところが同時に、アフリカ民族会議などの黒人解放組織や反アパルトヘイトの白人陣営から、激しい非難にさらされることになります。文化ボイコットを破り南ア音楽家と共演したことは、アパルトヘイトに加担したという論理です。そして南アの民族音楽をアメリカ資本が侵略したという見方もされたようです。さらに録音に参加した南アのミュージシャンたちまでも非難されます。
ポールのとった行動は、あくまで、出会った素晴らしい音楽をベースに新たな地平を切り開きたいという音楽的情熱に基づくものであり、それ以外の思惑はありませんでした。ポールの解釈では、南アに出向いて差別側白人のためにコンサート等をすることを拒否する、のが文化ボイコットであり、差別される側の黒人ミュージシャンとともに録音することは文化ボイコットに反しないだろう、という考えでした。また南アの黒人ミュージシャンは、ボイコットで閉ざされた自分たちの音楽を世界に知らしめる良い機会だということで参加したのであり、差別されている側の自分たちが、さらに反差別側に非難されるという二重苦は納得できないことでした。
当時の政治状況の中で、予想以上の批判にさらされた『グレイスランド』でしたが、アルバムの優れた音楽性に押され、ついに国連が『グレイスランド』は文化ボイコットに反するものではない、という声明をだし、直後に行われたツアーの素晴らしさが、そのことを証明しました。そこには人種を越えた音楽の躍動、歓びがあったのです。


『アンダー・アフリカン・スカイズ』では、当時ポールの行動を非難した黒人指導者と対話し、和解します。文化ボイコットは南ア政府を孤立させるために必要な制裁だった、ポールは不幸な時代に遭遇したのであり、今となっては君の成果を讃える、と指導者は言い、ポールは自分にも配慮が足りなかったことを詫びました。25年を経てわだかまりがとける感動的なシーンでした。

とまあ、にわか仕込みのお粗末な『グレイスランド』ストーリーでした。

んー、以前、ライ・クーダーを引き合いに出して、当時の風評を真に受けたポール観を書いてしまったことを反省する私です。数日の間にすっかりポールを見直したぜ。え、遅すぎる? すみません。

チョー久しぶりの記事も相変わらずまとまりがありませんが、最後に想い出をひとつ。

『グレイスランド』は、リアルタイム(1988年頃)ではレンタル・レコードをテープに録って持っていました。妙に記憶に残っているのは、5歳の息子を「とでん西武デパート」の屋上遊技場で遊ばせながら、それを初代Walkmanで聴いていた光景です。二人目の子はまだ2歳で、将来の見えない漠然とした不安感の中で過ごした正月休みのデパート屋上、その気分に不思議にフィットする、明るく乾いて弾んでいるけどどこか寂しげな楽曲、それが「グレイスランド」でした。
当時、歌の内容など知りませんでしたが、今になって訳詞を読んでみると、なぜあのときの気分にフィットしたかがわかります。

 ♪グレイスランドへ行くんだ
  貧しい少年達と巡礼者の一族
  そして僕等がグレイスランドへ向かっている
  僕の旅の道連れは9歳の子ども
  最初の結婚で生まれた息子だ
  グレイスランドは
  二人を受け入れてくれる
  そう信じる理由が僕にはある


そうか、あのときオレもグレイスランドへ行こうとしていたんだ、と思えてくるのです。





66年全米チャートは孤独の香り

Category : 1960年代/音楽
先日2日間、文化会館(私の職場)が文化発表会の会場だった関係で、母校である地元中学校の全生徒が来ていました。幼さの残る生徒の様子を眺め、事務室まで流れてくる校歌を聞いていると、フルコーラス校歌聞いたのは卒業以来だぞ、何年ぶりだろう、オレはあの頃何やってたかな、などとお決まりのノスタルジックな気分に浸らされました。

ん~、しかし学校生活については、輝かしい出来事など何一つない、実に地味で平凡だったと総括できるだけで、個々の具体的な記憶はすぐには浮かんできません。特に嫌なことも起こっていないし、特に楽しいこともありませんでしたからね~。

でも、少し思い出してきたぞ。修学旅行に行かなかったことや、放課後独りで鉄棒に熱中したことなど。正当な理由もなく修学旅行をバックレたのは学年で私だけでしたし、鉄棒は長ーい独り練習のお陰で車輪までできるようになっていました………。な、なんてサビシー想い出なんだ!! 変人濃度もかなり高めだぞ。

そんな偏屈少年は、家では洋楽レコードばかり聴いていました。学校のこととは違い、こっちはいろいろ覚えています。洋楽好きの友達が周りにいなかった(クラスでの一番人気はデビューしたばかりの森進一と青江三奈の「ため息歌謡」でした)ので、というかもともと友達がすくないので、もっぱら「ミュージック・ライフ」「ティーンビート」といった音楽雑誌やラジオ番組から情報を収集しては、地元のレコード店へ行き、店番のお兄さんに嫌な顔されながらも、あれこれ試聴させてもらい、長時間ネバッた末に1枚のシングル盤を買う、ということの積み重ねでしたね~。

レコード購入の指針にしていたのが、上記音楽雑誌に掲載されていた全米チャート。単に曲名と演奏者とチャートアクションが載っているだけのページを飽きもせずに読み、勝手な想像を膨らませてレコード店に走り、田舎の店には入荷しないことを悔しがったり、全米1位というだけででまったく好みじゃないレコードを買って後悔したり、といったことを繰り返していましたが、中3の頃がそういった全米チャート依存症のピークだったようです。

下に示すのは1966年3月26日付ビルボードトップ10です。

1 悲しき戦場/バリー・サドラー軍曹
2 19回目の神経衰弱/ローリング・ストーンズ
3 ひとりぼっちのあいつ/ビートルズ
4 にくい貴方/ナンシー・シナトラ
5 早くうちへ帰りたい/サイモン&ガーファンクル
6 デイドリーム/ラヴィン・スプーンフル
7 夢のカリフォルニア/ママス&パパス
8 ソウル&インスピレーション/ライチャス・ブラザーズ
9 夢の蝶々/ボブ・リンド
10 リッスン・ピープル/ハーマンズ・ハーミッツ

このうち、2,3,5,7,8,10位のレコードを私は買っているのですね。なんと6割。ライチャス・ブラザーズなんていう中坊には渋めのソウル・デュオのを買ったのも、この後1位になったからという理由だけです。買って聞いたらけっこう気に入りましたけど。

シングル盤価格は日本盤¥330、洋盤¥370だったか。当時の給与水準を大雑把に現在の1/10とすると、けっこう高価だったことになりますが、新聞配達のバイトをしていたから小遣いに余裕があったのかな。それにしてもよく買っていましたね。LPは¥2000でしたから、さすがに手が出せませんでした。


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その6枚の画像。いずれも今では手元にありませんので、記憶を頼りに購入当時のバージョンのジャケット写真をネットで集めてみました。んー、私もけっこういいとこツイてますね。どれもポップ・ロック・クラシックスとして現在まで残っている曲ばかり(ハーマンズは微妙なところ)。まあ、私の眼力ではなく、この頃の名曲密度がすごく高かったということですけど、ハイ。

ため息歌謡が幅をきかせる洋楽未開地の私の周囲から、もう少し広く眺めてみると、この前年にザ・ヴェンチャーズの人気が沸騰し、加山雄三の映画『エレキの若大将』の大ヒットなど、若者の間では空前のエレキ・ブームが起きていました。しかし、これは英米のポピュラー音楽シーンとはそれほど連動していませんでしたし、後に言うロック度もそれほど高くは感じません。日本歌謡界というフィルターを通過する際に変異した独自の音楽だったと思います。

というわけで、加山雄三に人並みにはシビレましたが、エレキブームにはさしてハマらず、あくまで軸足は洋楽にありましたから、ストーンズやアニマルズの話をする相手もいなくて、独りで全米チャートを眺めては妄想に浸る日々ではありました。

こう書いてきて気づくのは、どの時代の心情を思い出してみても、たとえば20歳の頃であっても、だいたい金太郎飴のように同じような記憶であるということです。疎外感というほどではないのですが、いつも周りと少しズレている感じですね。さしたる不幸感はないのですけど。


おや、なんか久しぶりのリハビリブログは、変人カミングアウト記事みたいになったぞ。ま、いいか。私を直接知っているヒトには、さほど意外でもないだろうしね。特にテーマが見つからなかったので、洋楽好きと孤独感を牽強付会ぎみに結んで中坊時代を点描してみたらこうなりました~、ということで失礼します。

野外フェスの原点は友達の妹の想い出

Category : 1970年代/音楽
投稿の間隔が次第に開いてきて、とうとう3カ月ぶりになってしまいました。思い返してみれば、ミクシイに書いていた頃からそうなのですが、生活の中でいかにもブログネタになりそうな大きな出来事があると、そのことで充足してしまったり、事実に力負けしてしまったりして、記事にする気がなくなるというか、機を失してしまう傾向がありますね。

4月に初めてフルマラソンを走ったという私的には大きなネタも、感慨に浸っているうちにボストンマラソン会場で爆弾テロが起こったこともあり、書くタイミングを逃しました。

やはり、ついた餅は熱いうちに丸めなきゃいけません。というわけで、仲間達と数日前(5月3日)に開催した小さな野外フェス。秋がいいか春にするか、と実施時期を模索していて1年半ぶりの開催となりました。

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若い世代が主催するフリーマーケットとのコラボと、ゴールデンウィーク中の晴天の日という好条件に恵まれ、これまでにない賑わいをみせ、苦節15年にして初めて「大成功」と宣言できる催しとなったような気がします。これまで他人任せにしてきた出演者のブッキングを、すべて自分でやってみたこともよい緊張感になりました。爆音系のバンドも呼んできたので、会場に隣接する介護施設で具合が悪くなる人が出たらどうしよう、なんて(笑)。

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でも、お陰様で音に対する苦情や大きなトラブルもなく、無事終了することができました。さすが地元の人々は祭りに寛容だなあと感じます。有り難いことです。

日本の野外音楽フェス。わがフェスのような千人足らずの小さなものから十数万人規模の巨大フェスまで、各地でたくさん開催され、ここ10数年ほどは「野外フェス・ブーム」らしいですね。ムカシは野外フェスといえば、混乱を極めた災害被災地みたいになったことがよくあったようですが、近年は文化?として成熟したというか、客も主催側も、野外で音楽を享受できる心構えと準備体制が確立されているようで結構なことす。


さて、日本の野外フェスのルーツとされているのが、全日本フォークジャンボリー。1969年から1971年までの夏3回にわたって、岐阜県現中津川市で行われました。その記録がいわゆるメジャーからリリースされたのは最終の3回目からだったので、私を含めた多くの人々がこの催しのことを認知したのは1971年以降のことだったと思われます。

フォークジャンボリー表

ジャンボリー裏


掲載のジャケットは、キングレコードから発売された、その第三回フォークジャンボリーのライブ盤。写真から当時の被災地的雰囲気が何となく漂ってきます。私は当時、2枚組で高価にもかかわらず購入し、かなり聴き込んでいたようで、このアルバムからコピーした曲を数曲40年経ったいまでも歌っているほどです。しかし、それほど愛聴したこのアルバムを私はほどなく手放してしまいます。

二十歳のとき、横浜から東京へ流れ着いて、ようやく就けた安定した職(バイトですが、それまでの日雇いよりは安定していたという程度)が、後にそこの学生になるH大学の食堂でした。バイト仲間は、ほとんど都内の大学生で、私はこの仲間とともに、大学闘争終焉期にあって様々な活動を経験することになるのですが、そのことについてはまたの機会に。

そのバイト仲間の中に、栃木訛りの強い朴訥なM君という青年がいました。彼は、高卒後板前の修業をしながら百万円(今の貨幣価値だと五百万円くらいか)貯金したのですが、あるとき虚しくなって、それを数ヶ月でぜんぶ使ってしまったそうです。純朴な青年の価値観までもが揺すぶられるそんな時代だったのよ。そのエピソードが気に入ったせいかどうか、M君と気があって友達になりました。

あれは何線だったか、線路沿いの彼のアパートを訪ねると、とても可愛い妹さんが同居していたのですね。話していると、彼女はフォークジャンボリーのレコードをとても聴きたいと思っていたということで、私は舞い上がってそれを差し上げてしまったのです、はい。ものをあげることでしか他人の関心を引けない奴っていますよねえ。彼女に会ったのはたぶんそのとき一回だけだったはずです。かぐや姫の「妹」が流行る前だったと思いますが、友達の可愛い妹というのは、テッパンの存在ですよねえ。ということで、フェスといえば思い出す青春の一コマでした。少し強引ですが。

えーと、M君の妹にあげたはずのアルバムですが実は現在持っていて、なぜかというと、同じモノを最近ヤフオクで買ったからです。当時と同じアナログ盤で40年前のことを再確認したくて。いま聴きながらこれを書いているのですが、楽曲の良さとともに録音のクォリティにも驚かされます。後にベルウッド・レーベルを立ち上げることになるプロデューサーが、キングの録音スタッフを連れてゲリラ的に録音したようですが、権利関係も含め現在の常識からすると、よく出せたモノだなあ、と思える奇跡のようなアルバムですね。

アラバマ・シェイクスに70年代魂をシェイクされオジイは何処へ行く?

Category : 2010年代音楽
今朝は30kmジョギング。ここ一週間の練習で、20km走のラストでも末脚が少しできてきたので、今日は思い切って最初から飛ばし(あくまで自分の実力内での感覚。端から見たらゆっくり走っていると見えるはず)、どこまでペースが保てるか試してみました。結果は、25kmまでは持ちましたが、そこから急激に脚にきてヘロヘロに。歩くと変わりないスピードでようやく家にたどり着きました。前回走ったときよりはタイムを30分短縮できましたが、やはり実力にあわない無理なペースは、最後に悲惨な結果を招きます。

走っている3時間半のあいだ、ずっと聴いていたのがアラバマ・シェイクスの『BOYS & GIRLS』。ここのところ、ものすごく気に入ってます。(実物ジャケットは、白の背景にメジューム=透明インクで模様が印刷された透かしデザインで、撮影するとホワイト・アルバムみたいになりますので、模様がわかるように作られた表示用画像を貼っておきます)。

Boys Girls

昨年デビューした新人のファースト・アルバムなのに、すでにロック・スタンダードのような風格。エフェクトのほとんどかかっていないナチュラルな音色のギターとどっしりしたシンプルなリズムに、ブリタニー・ハワードのエモーショナルなヴォーカルがのっかります。ジャニス・ジョプリンやアレサ・フランクリンに似ているといわれているみたいですが、ジャニスよりは声量がありそうです。60-70年代のロック&ソウルの煙でじっくりスモークされた燻製のような絶妙の味わいです。やっぱアメリカ音楽は懐が深いわい。テデスキ・トラックス・バンドに続いて、年寄りキラー会員番号2です。なんのこっちゃ。

…………………

先日、少し寂しい知らせを聞きました。長年「音楽的ココロの友」と思ってきたDTバンドのドラマーTさんが、演奏活動から引退すると宣言したそうです。私より数歳下なのになあ。カウンター・カルチャー世代のスピリットあふれるすてきなおんちゃんなのに、音楽やめて釣り好きの電気屋さんで通すことにしたのかなあ。ふつうのオッサンやん、それ。本人にはまだ話を聞いてないのでわかりませんが、音楽も十分やりきったということでしょうか。

私はというと、最近つくづく思うのは、自分の特徴はあきらめが悪いというか未練たらしいところだということです。一つのことを極めるまでトコトンやるということはないかわりに(というか、だからこそ)、いろんなことをあきらめきれず未練がましくいつまでも続けているようなところがあります。

走ることしかり、バイクしかり、音楽しかり。どれもモノにはなりませんでしたが、周りの同世代がやめていくなかで、私だけがしつこくしがみついています。自分みたいな何の取り柄もないやつは、降りたらほんとうのオシマイや、みたいな気がするのですね。

というわけで、アラバマ・シェイクスのような素晴らしい若い世代が出てきてじゃまにされても、老害(懐かしい単語!)と言われても、しばらくはヤリマスからっ!!

いつの間にか決意表明になってしまいました。他人にはどうでもいいことですよね。失礼しました。




61で振り返る追憶のディランは結局のところよくわかりません。

Category : 1960年代/音楽
この間還暦を迎えたと思ったら、もう61歳になってしまいました。いや、速い。坂道を転がるよう、という比喩が大げさでない気がします。

これは少し急がないとダメだぞ、と感じ、長年先延ばしにしてきた目標であるフルマラソン出場を決心し、昨秋から練習を始めました。
年明けには30km走まで伸ばすことができましたが、フル完走を想定したスロージョギングですので所要時間は4時間くらい、午前中いっぱいの半日間走っているわけで、走り終えて入浴し飯を食ってちょっと体を休めていたらもう夜という感じで、休日はほぼ走ることだけで終わってしまいます。
こういうのもなんだかなあ、と思い、ここんとこ距離を半分にして、身体的時間的負担を減らすようにしています。カラダが動くうちにやっときたいという気持が焦りになっているのでしょうが、焦って何かするのは楽しくないですもんねえ。

で、61歳になって、「ん、61?このスージ、なんか聞き覚えがあるぞ、何やったかなあ。ああ、ディランや。」ということで、今回は『追憶のハイウェイ61』。無理矢理ですね。

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いうまでもなく、ディランがロック・サーキットでもトップ・ランナーに躍り出た記念碑的アルバム。というか、このアルバムによって、彼自身がロックの道幅を押し広げてしまった。ポピュラー・ソングにおける「世界」の質量を一気に増加させた『ライク・ア・ローリング・ストーン』を先頭に置いたこのアルバムは、ロックンロールが、ティーンエイジャーのシンプルな娯楽アイテムから、世界と渡り合える武器となり得るまで深化したことを示しました。

なんて、知ったふうなことを書きましたが、こんな評価はロック50年の歴史研究から導かれたものであって、リアルタイムに、特に日本ではその価値に言及した人はほとんどいなかったでしょう。だいいち日本盤『追憶のハイウェイ61』が出たのは、アメリカ発売から3年後の1968年のことですし。

ボブ・ディランという名前についての最初の記憶は、全米チャートトップ10で見た『Rainy Day Women # 12 & 35 』という変なタイトルの歌の演奏者としてです。洋楽チャートに夢中ではありましたが、四国の片田舎のボーッとした中学生には、前衛という言葉さえ未知のもので、はっきりいってわけがわかりませんでした。

70年代になると、ジョージ・ハリスン企画の「バングラデシュ難民救済コンサート」などで、既に神格化されたポジションにいるらしいディランのことを知るようになり、曲も耳にすることが増えました。その頃には(おもにフォーク時代の)ディランに影響を受けた日本人ミュージシャンも多く出てきていました。

でも、『追憶の~』を買ったのは70年代後半になってから。完全に後追いで、世間では既にインテリ層御用達ロックの必須教養アイテムという位置づけだったように思います。まあ、現在でもそこは似たようなもんでしょうが。英語圏の人たちにとっても難解な比喩を畳み掛けてくる長大で饒舌な歌詞、意図的に調和を乱しているとしか思えない歌唱、など日本の一般リスナーには馴染みにくい要素だらけですよね、ディランは。でも、凄いという評価だし、と我慢して呑みにくい薬を流し込むみたいにかなり無理して聴いていると、解らないなりに次第に気に入りの曲もできてくる。たいてい短めで、詞の難解さもほどほどで、メロディアスな取っつきやすい曲ですね。こういうのを聴くとディランの才能が少し理解できた気がします。それと、たいていの場合ディラン本人が歌うより、他の人がカヴァーしたほうが曲の良さがわかる、なんてことにも思い当たり、そこでやはりディランの曲はいいんだねえ!なんて感じること、ありますよね。その頃から30数年たった現在でも私のディラン理解はあまり進歩していませんが、それまでのポピュラーミュージックは、腰から入ったり胸から入ったりがほとんどだったけど、ディランが初めて頭から入る音楽を作った、と思います。めんどうなことやねえ。

ということで、雑誌『ローリング・ストーン』にロック史上最も偉大な曲として選ばれた、アルバム1曲目『ライク・ア・ローリング・ストーン』(ややこしい)の歌詞で締めたいと思います。「転がる」で、うまく今回の駄文出だしともつながりましたし。え、つながってない?


昔、君は着飾って
フーテンたちに10セント硬貨を投げていたね
皆は言ってた
「お嬢さん、気をつけろ。
 あんたはきっと落ちぶれるぜ」
君は皆がからかっているだけだと思っていたろう
フラフラしている人たちを君は笑っていたからね
けど、今は大きな声で話すこともなくなってしまった
次の食事のことを心配しなくちゃならなくなったなんてことが
君の誇りを失わせてしまったんだろう

どんな気持ちだい
家をなくして
完璧に忘れ去られたようだということは
転がる石のようだということは




……。新年らしからぬ、めでたくない歌詞で申し訳ありませんでした。



ニール・ヤングの新作は、小言オヤジを勘違いさせるパワーに満ちている。

Category : 2010年代音楽
この歳になって何に元気づけられるかというと、やはり同世代や上の世代が頑張っているところにですかね。このブログのテーマを追悼専門にしたらネタに困らないだろうと思うほど、最近、自分の感性の血肉を作ってくれた人たちが亡くなっていきます。まあ、自然の摂理に従いそういう時期にさしかかってきたというだけのことですが、まだ達観してしまうには早いし、元気なジジイでもみて、よっしゃオレももういっちょうやってやろうやないか、と奮い立ちたいわけですよ。

そんな気にさせてくれるジジイの筆頭はニール・ヤング。

盟友クレイジーホースと組んだときのニールは、弾けるというかほどけるというか沸騰するというか強烈なパワーを発揮しますね。その代表例が90年代初頭の『ウェルド』で、グランジ世代までもノックアウトしてしまうほどの熱を放射していました。

久しぶりにクレイジーホースを従えた最新作が『アメリカーナ』。古いフォークソングをロック・アレンジで演奏したアルバムなんですが、これが相変わらず荒々しいというか枯れてないというかむしろ青臭いほど力が漲った轟音ロックに仕上がってます。

クレイジーホース70年と12年

写真左は数年前にアーカイブシリーズとして世に出た1970年のクレイジーホースとのライブ盤です。右の『アメリカーナ』を聴いた後聞き比べてみたのですが、変わってない! 42年も経つのに!! この変わらなさは、例えばストーンズが、完璧なプロフェッショナルな姿勢でファンの望む昔と変わらない若さを演じ提供し続けているのとは違って、構えていない自然な感じがします。多くの中高年ロッカーのようには被ったり植えたりしていない頭部はザンバラ髪の落ち武者の様相ですし、容姿は年相応に老けているのですが、彼の音楽には変わらない若々しさがあります。成長がないというのでもありません。変わらない彼の印象は、ずっと心が折れていないというか、世界への関心を持ち続け、音楽を通じてもの申していくという意欲が衰えていないのが聴き手に伝わってくるところによっているのでしょう。

私も彼を見習って、これからは社会にもの申していこう。歳を重ねた世代だから見えてくるもの言うべきことがあるはずだ。ん、もう家族からは口うるさいだけの小言オヤジと煙たがられている? お呼びでない?

こりゃまた失礼いたしました。



それはスポットライトではなくキャロルの瞳で輝いていたものなのか

Category : 1970年代/音楽
ずいぶんブログを更新していませんでした。4月は1本も書いてないモンなあ。

さて先日、友人からボビー“ブルー”ブランドのアルバムを戴きました。
おすすめナンバーのひとつが“It's Not The Spotlight”というから、こりゃあ文字通り聞き捨てならん、ということで早速聴いてみました。

ボビー・ブルー・ブランド

なんで聞き捨てならんかというと、この曲は私の古くからのフェバリット・ソングでして、30数年前にカセット・レコーダーでピンポン録音した私の一人多重録音演奏テープが今も手元に残っております。そのテープは、聴くのが怖いシロモノでして、懐かしさに負けてつい聴いてしまったりすると、しばらく落ち込み、以後10年くらいは聴きたくなくなります。んなもんで、録音したとき以来、人前で時々演奏するようになった現在でも、この曲をやったことはありませんが。

ボビー・ブランドで改めて聴いてみて、やはりものすごくエエ曲やと再認識し、あまり気にしていなかったこの曲の来歴なぞをたどってみる気になりました。

この曲を最初に聴いたのは70年代後半、浅川マキによる日本語バージョン「それはスポットライトではない」。以前に触れたように、彼女は大のロッド・スチュアート・ファンでしたので、ロッドのアルバム『アトランティック・クロッシング』でこの曲を知りカバーしたと思われます。


アトランティック・クロッシング

私がロッドを聴くようになったのは、浅川マキが歌う「ガソリン・アレイ」や「オールド・レインコート」の原曲を聴きたくなったからで、『アトランティック~』を買ったのも「それはスポットライトではない」の元歌「イッツ・ノット・ザ・スポットライト」が目的でした。ところがまあ、このアルバムがとんでもない名作で、特に〈スロウ・サイド〉と名付けられたB面は、1曲目の「もう話したくない」から「それはスポット~」を経てラストの「セイリング」まで怒濤の名曲・名演・名唱揃い。ハスキーボイスをぐっと押さえて入り徐々に解放してパワー全開へともっていくスケールの大きさ。音色も都会的な中にイギリス・トラッド・フォークのイナタイ哀感が混じり、男の色気といいましょうか、ゾクッとくるほどいいんですねえ。この前後数年間のロッドは名実ともにナンバーワン・ロックボーカリストでした。

閑話休題(それはさておき)、浅川マキ訳による日本語詞。

もしも光が またおいらに
あたるなら それをどんなに待っているさ
ずっと前のことだけれど その光に
気づいていたのだが 逃しただけさ
だけどふたたび いつの日にか 
あの光が おいらを照らすだろう

あの光 そいつは古びた街の 
ガス灯でもなく月明かりでもない
スポットライトでなく ろうそくの灯じゃない 
まして太陽の光じゃないさ
あの光そいつは あんたの目に 
いつか輝いていたものさ
またおいらいつか 感じるだろうか 
あんたは何を 知ってるだろうか

It's not the spotlight
It's not the candlelight
It's not the streetlight
But some old street of dream
It's ain't moonlight
Not even the sunlight
But I'v seen it shining in your eyes
And you know what I mean


この日本語詞が秀逸です。求める「その光」が真理や悟りなど崇高な精神性の比喩のようであり、厳粛ささえ感じられるような気がします。でも、原詞はもっと軽いノリで、「スポットライトみたいに輝く瞳の彼女と別れてしまった。でもまたいつかヨリをもどしてやるぜ」(超意訳!)みたいな未練節のようです。まあ、プレイボーイのロッドが歌うには、そっちのほうが似合ってますけど。日本語詞はそんな下世話な感情が昇華されてて断然いいと思いますよねえ。

浅川マキ訳の工夫をひとつ。掲載の歌詞は、日本語部分がヴァース(いわゆるAメロ)で、英語部分がコーラス(いわゆるサビ)です。しかしよく見ると、ヴァースの後半部分がコーラス部分の訳になっています。「サビは英語のまま歌いたい(正確には、つのだひろに歌わせたい)けど、それじゃ肝心なところの意味が日本人に伝わらない。そうだ、サビの歌詞をAメロに入れとけば、サビが英語でも意味的にはコンプリートじゃん」とマキさんは閃いたのでした、たぶん。

浅川マキ・バージョンは、下北沢のジャニスこと(古いキャッチ!)金子マリも歌っています(どちらかというとマキよりマリ版のほうが有名かも)。YouTubeを探せばアマチュアによるカバーもけっこうあります。

このような流れから、この曲のオリジナルはロッドかなと漠然と思っていたのですが、件の友人は、ロッドはボビー・ブランドのをカバーしたんじゃないか、と言い置いていったのでした。で、俄然気になりだして、調べてみることにしたのでした。

「イッツ・ノット・ザ・スポットライト」は作詞ジェリー・ゴフィン、作曲バリー・ゴールドバーグ。ゴフィンは60年代前半に、伝説の<ブリル・ビルディング>で、当時の妻キャロル・キングとのコンビでヒット曲を連発(「ウィル・ユー・ラブ・ミー・ツモロウ」や「ロコモーション」など)した有名作詞家。しかし「~スポットライト」を書いたと思われる70年代前半には、別れた妻のキャロル・キングがアルバム『つづれおり』のモンスター・ヒットで大スターとなったのに対し、ゴフィンはほとんど忘れ去られた存在となっていたということです。という境遇から推察すれば<その光>を放っていたのは、キャロルという可能性もありですねえ。
作曲者のゴールドバーグは不勉強な私には初めて聞く名前でした。マイク・ブルームフィールドと共にエレクトリック・フラッグやKGBのメンバーとして活動していた人だそうです。

ゴフィンもゴールドバーグも、それぞれこの曲を自分で歌って録音しています。ボビー・ブランドもほぼ同時期にアルバムに入れていますが、ネットで調べても、最初にレコーディングしたのが誰だったのか、はっきりしません。ゴールドバーグのアルバムは、スワンプ・ミュージックの聖地マッスルショールズ・サウンド・スタジオで録音されています。その翌年くらいにロッドがここで『アトランティック・クロッシング』を録音していますから、その際スタジオ関係者からこの曲を教えられたんじゃないか、と推測される方もいるようです。

決してヒット曲ではないけれど、さまざまな実力派ミュージシャンに愛され歌い継がれてきた典型的な〈隠れ名曲〉が「それはスポットライトではない(It's Not The Spotlight)」ということですね。

うーん、オレも三十数年ぶりに、この曲を歌いたくなってきたぞ。

私の歌でこの曲を初めて聴くことになったりする方は、不運としかいいようがありませんけど。いや曲が不運なのか。






戦後思想界の巨人だけど居酒屋とんぺいの主人に似た庶民的な吉本隆明が好きだった

Category : 心のほとんどは60年代と70年代でできている
一昨日、吉本隆明氏が亡くなりました。


けふから ぼくらは泣かない
きのふまでのように もう世界は
うつくしくもなくなつたから そうして
針のやうなことばをあつめて 悲惨な
出来ごとを生活のなかからみつけ
つき刺す
ぼくらの生活があるかぎり 一本の針を
引出しからつかみだすように 心の傷から
ひとつの倫理を つまり
役立ちうる武器をつかみだす
しめつぽい貧民街の朽ちかかつた軒端を
ひとりであるいは少女と
とほり過ぎるとき ぼくらは
残酷に ぼくらの武器を
かくしてゐる
胸のあひだからは 涙のかはりに
バラ色の私鉄の切符が
くちやくちやになつてあらわれ
ぼくらはぼくらに または少女に
それを視せて とほくまで
ゆくんだと告げるのである

とほくまでゆくんだ ぼくらの好きな人々よ
嫉みと嫉みとをからみ合はせても
窮迫したぼくらの生活からは 名高い
恋の物語はうまれない
ぼくらはきみによつて
きみはぼくらによつて ただ
屈辱を組織できるだけだ
それをしなければならぬ

            〈吉本隆明「涙が涸れる」)



二十歳の頃、大きな黒い紙に白いポスターカラーでこの詩を手書きして自室の壁に貼っていました。少年期を脱して世界に異和を覚えた若イシが、旧世界への別れと闘いを決意するというような詩でしょうか。「涙」「少女」「バラ色の私鉄の切符」となどのロマンチックな言葉と「倫理」「針」「武器」「組織」などの硬質な響きのブレンド、そして呼びかけと断言が、闘いに赴く際の高揚感を醸し出していてカッコイイ叙情詩ですから、吉本作品の中でこれがいちばん好きという人は私以外にもたくさんいるのではないでしょうか。


書棚の吉本2


70年代の、遅れてきた全共闘世代の私にも吉本隆明は思考の羅針盤でした。何かにぶつかると、ヨシモトはこういうことについてどう考えているか、がとりあえず知りたくて著作を読み漁りました。彼の理論は難解で正直いってほとんど理解できませんでしたが、在野というか庶民の側にたったその立脚点には共感を覚え、また小気味よい啖呵の論争口調にも影響されたものです。
吉本宅を訪問し、玄関先で立ち話をした際、なんかの書名を書き付けた直筆のメモを貰ったとかで、それを宝物にしていた友人がいたことなども思い出されます。

90年前後、子育てなど生活に追われ本からも音楽からも遠ざかっていた頃、立ち読みした氏の著書に、労働者独裁による富の平等分配より資本家による施しのほうがより貧者を豊かにしているという事実をもって、共産主義は失敗だったといえる、みたいな記述があって(舌足らずな要約でお恥ずかしい)、ああ、ヨシモトに引導を渡されたんだから、ほんとうに共産主義(という壮大な実験)は破綻したんだな、と納得したことを覚えています。

団塊世代の思想的アイドルとも呼ばれる吉本氏のこと、悼む声もネット内外に溢れているはずですので、半可通の私の出る幕などないでしょうから、隅っこの方でそっとご冥福をお祈りします。


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オジイ川端

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