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Now I'm sixty-fourは歌にはならんな

Category : 1960年代/音楽

When I get older losing my hair
Many years from now
Will you still be sending me a valentine
Birthday greetings, bottle of wine?
If I'd been out till quarter to three
Would you lock the door?
Will you still need me, will you still feed me
When I'm sixty-four?

この歌を聴くたびに思うのは、作者のポール・マッカートニーは、作った当時、64歳になった自分をリアルに想像できていたのか、ということです。リアルというのはちょっと違うな。トータルにというべきか。まあ、「ともに白髪の生えるまで」みたいな類型的な理想夫婦像を歌ったポップ・ソングに、ちゃんと老後を想像していたのか、なんて問うのは野暮ですが、つい思ってしまうのですね。

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The Beatlesのアルバム『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』に収録の「When I'm sixty-four」。録音されたのは1966年、ポール24歳のときでした。『Sgt. Pepper's ~』は、ポップス史上初のコンセプト・アルバムと言われています。この年からライブ活動を止めてしまったビートルズ。
そこでポールが「その代わりといっちゃなんだが、架空のバンドが観客の前でショーを行うという構成のアルバムを作ろうよ」と、いかにもポールが言いそうなことを言いだしたとかで、制作が始まりました。ジョンは「えー、何それ、ダサイじゃん。やる気起きねーなーオレ」と、いかにもジョンが言いそうなことを言ったかどうかはわからない。このアルバムにジョン作品が少ないという点からきた私の妄想です。

で、アルバムコンセプトに合うと思ってか、ポールが十代の頃作っていた曲を引っ張り出してリニューアルし、このプロジェクトの初めの方で、チャチャッと2テイクくらいで録音したのが『ウェン・アイム・シックスティ・フォー』。クラリネットを入れたりの古き良き時代のミュージックホール的なアレンジは、この半年前に英国で大ヒットしたキンクスの『サニー・アフターヌーン』の影響もあるかな。

『サージェント・ペッパーズ~』は、リアルタイムではなく、5年くらい遅れて70年代前半に買ったのですが、その頃には既に絶対的名盤の評価が確立していたと記憶しています。しかし私にはあまりピンとこなかったな。ビートルズの他のアルバムに比べ、際立った曲が少ないという印象でした。『~シックスティ・フォー』も、私の中では、洒落てはいるけど地味などうでもいい小品、以上の位置ではなかったように思います、当時は。

それが、歳をとってふと気づくと、妙にお気に入りの曲になっていたのだな、これが。

若い頃は、ビートルズのなかでは絶対的ジョン・レノン派でした。繊細さと粗暴さがない交ぜになった、無防備で傷つきやすい人間像とその楽曲は、同じように不安定な青春期の人間にとっては、やはり魅力的です。折しも1970年前後。学生運動の高揚と急速な退潮に象徴される挫折感は、当時の若者には親しいものでした。ジョンはそんな時代に積極的に関わったヒーローでした。様々なメディアへの露出、発言や活動も、他メンバーに比べ突出していて、音楽以外の、社会・政治方面でのジョンに関する情報量も多かったな。その当時からすでに、時代に翻弄され気味のジョンの危うさ、みたいなものは伝わってきました。そこが痛々しくてまた魅力だったのです。

ポールはというと、どうしてもジョンの対極に置いてしまうのは仕方ないわけで、70年当時は、公開されたばかりの記録映画『レット・イット・ビー』での、お節介で仕切り過剰のウザいポールの姿が、強い印象を与えた時期で、ビートルズ解散の元凶と見なされていたところへ、2作の隠居的アルバム(『マッカートニー』『ラム』)を発表して、セールスは好調だったものの、進歩派・社会派(=ジョン好き)からの評価は、酷いものでした。甘めのポップソングばかりのポールは、私にも不要の存在でしたね。

それから幾星霜。50歳も過ぎて、遅ればせながら分別も少しつき、正義だけでは立ちゆかない世の中のほろ苦さも身に沁みだしたころ、なんか次第にポールのことが好きになってきたのです。その頃になるとビートルズ研究が進み、解散前後の事情を知ることができる資料も豊富になって、(バンド存続のため彼が心を砕いて努力したことなど)、ポールをきちんと評価できる環境が整ったこともあります。お節介、牽引役、めんどくさい嫌われるところを引き受ける彼のような人は世の中には必要なんだ、と解る年頃になったということです。え、遅すぎ?

そんな頃、『ウェン・アイム・シックスティ・フォー』を聴き直して、なんともキュートな曲やん、オレも歌いたいな、と思い、日本語詞をつけました。ポールが64歳になった頃です。冒頭に掲げた部分は次のようにしました。日本語と英語の音数の違いで、内容が半分くらいしか盛り込めない(笑)。

いまからうんと時は過ぎて ぼくがジイさんいなり
髪の毛が全部 抜けてしまっても
バレンタインの贈り物 君はくれるかな
64歳のぼくを 愛してくれるかな

これを知った我が娘は、「ポールとお父さんの30年目の和解やねえ」と言いました(笑)。

ここで最初の問い、本当にポールは64歳の自分を思い描けていたか、になるのです。
答えは、「ノー」やろうなあ。64歳になっても現役のロックンローラーで、老骨に鞭打ってツアーを回っているなんて、24歳の時には想像できないし、当時のロックの基準からすればあり得ないことやしね。やはりジジイはそれなりに枯れて、穏やかなリタイア生活をしているものだと漠然と思うものです。でも、実際の64歳は……。
ちょうど64歳でポールが妻と離婚した、なんて歌を裏切る皮肉な話題も沁みますね。

シマラナイままオチの時間となりました。ポールの64歳、なんてどうでもいいことが特に気になるのは、私が3日前に64歳になって、こんなハズじゃなかったぞと焦ったから、というのが、オチないオチ。こんなとはなんなんだ、どんなならよかったんだ、というツッコミについては、ぼちぼち考えます。本年も宜しくお願いします。













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66年全米チャートは孤独の香り

Category : 1960年代/音楽
先日2日間、文化会館(私の職場)が文化発表会の会場だった関係で、母校である地元中学校の全生徒が来ていました。幼さの残る生徒の様子を眺め、事務室まで流れてくる校歌を聞いていると、フルコーラス校歌聞いたのは卒業以来だぞ、何年ぶりだろう、オレはあの頃何やってたかな、などとお決まりのノスタルジックな気分に浸らされました。

ん~、しかし学校生活については、輝かしい出来事など何一つない、実に地味で平凡だったと総括できるだけで、個々の具体的な記憶はすぐには浮かんできません。特に嫌なことも起こっていないし、特に楽しいこともありませんでしたからね~。

でも、少し思い出してきたぞ。修学旅行に行かなかったことや、放課後独りで鉄棒に熱中したことなど。正当な理由もなく修学旅行をバックレたのは学年で私だけでしたし、鉄棒は長ーい独り練習のお陰で車輪までできるようになっていました………。な、なんてサビシー想い出なんだ!! 変人濃度もかなり高めだぞ。

そんな偏屈少年は、家では洋楽レコードばかり聴いていました。学校のこととは違い、こっちはいろいろ覚えています。洋楽好きの友達が周りにいなかった(クラスでの一番人気はデビューしたばかりの森進一と青江三奈の「ため息歌謡」でした)ので、というかもともと友達がすくないので、もっぱら「ミュージック・ライフ」「ティーンビート」といった音楽雑誌やラジオ番組から情報を収集しては、地元のレコード店へ行き、店番のお兄さんに嫌な顔されながらも、あれこれ試聴させてもらい、長時間ネバッた末に1枚のシングル盤を買う、ということの積み重ねでしたね~。

レコード購入の指針にしていたのが、上記音楽雑誌に掲載されていた全米チャート。単に曲名と演奏者とチャートアクションが載っているだけのページを飽きもせずに読み、勝手な想像を膨らませてレコード店に走り、田舎の店には入荷しないことを悔しがったり、全米1位というだけででまったく好みじゃないレコードを買って後悔したり、といったことを繰り返していましたが、中3の頃がそういった全米チャート依存症のピークだったようです。

下に示すのは1966年3月26日付ビルボードトップ10です。

1 悲しき戦場/バリー・サドラー軍曹
2 19回目の神経衰弱/ローリング・ストーンズ
3 ひとりぼっちのあいつ/ビートルズ
4 にくい貴方/ナンシー・シナトラ
5 早くうちへ帰りたい/サイモン&ガーファンクル
6 デイドリーム/ラヴィン・スプーンフル
7 夢のカリフォルニア/ママス&パパス
8 ソウル&インスピレーション/ライチャス・ブラザーズ
9 夢の蝶々/ボブ・リンド
10 リッスン・ピープル/ハーマンズ・ハーミッツ

このうち、2,3,5,7,8,10位のレコードを私は買っているのですね。なんと6割。ライチャス・ブラザーズなんていう中坊には渋めのソウル・デュオのを買ったのも、この後1位になったからという理由だけです。買って聞いたらけっこう気に入りましたけど。

シングル盤価格は日本盤¥330、洋盤¥370だったか。当時の給与水準を大雑把に現在の1/10とすると、けっこう高価だったことになりますが、新聞配達のバイトをしていたから小遣いに余裕があったのかな。それにしてもよく買っていましたね。LPは¥2000でしたから、さすがに手が出せませんでした。


1966のレコード600px

その6枚の画像。いずれも今では手元にありませんので、記憶を頼りに購入当時のバージョンのジャケット写真をネットで集めてみました。んー、私もけっこういいとこツイてますね。どれもポップ・ロック・クラシックスとして現在まで残っている曲ばかり(ハーマンズは微妙なところ)。まあ、私の眼力ではなく、この頃の名曲密度がすごく高かったということですけど、ハイ。

ため息歌謡が幅をきかせる洋楽未開地の私の周囲から、もう少し広く眺めてみると、この前年にザ・ヴェンチャーズの人気が沸騰し、加山雄三の映画『エレキの若大将』の大ヒットなど、若者の間では空前のエレキ・ブームが起きていました。しかし、これは英米のポピュラー音楽シーンとはそれほど連動していませんでしたし、後に言うロック度もそれほど高くは感じません。日本歌謡界というフィルターを通過する際に変異した独自の音楽だったと思います。

というわけで、加山雄三に人並みにはシビレましたが、エレキブームにはさしてハマらず、あくまで軸足は洋楽にありましたから、ストーンズやアニマルズの話をする相手もいなくて、独りで全米チャートを眺めては妄想に浸る日々ではありました。

こう書いてきて気づくのは、どの時代の心情を思い出してみても、たとえば20歳の頃であっても、だいたい金太郎飴のように同じような記憶であるということです。疎外感というほどではないのですが、いつも周りと少しズレている感じですね。さしたる不幸感はないのですけど。


おや、なんか久しぶりのリハビリブログは、変人カミングアウト記事みたいになったぞ。ま、いいか。私を直接知っているヒトには、さほど意外でもないだろうしね。特にテーマが見つからなかったので、洋楽好きと孤独感を牽強付会ぎみに結んで中坊時代を点描してみたらこうなりました~、ということで失礼します。

61で振り返る追憶のディランは結局のところよくわかりません。

Category : 1960年代/音楽
この間還暦を迎えたと思ったら、もう61歳になってしまいました。いや、速い。坂道を転がるよう、という比喩が大げさでない気がします。

これは少し急がないとダメだぞ、と感じ、長年先延ばしにしてきた目標であるフルマラソン出場を決心し、昨秋から練習を始めました。
年明けには30km走まで伸ばすことができましたが、フル完走を想定したスロージョギングですので所要時間は4時間くらい、午前中いっぱいの半日間走っているわけで、走り終えて入浴し飯を食ってちょっと体を休めていたらもう夜という感じで、休日はほぼ走ることだけで終わってしまいます。
こういうのもなんだかなあ、と思い、ここんとこ距離を半分にして、身体的時間的負担を減らすようにしています。カラダが動くうちにやっときたいという気持が焦りになっているのでしょうが、焦って何かするのは楽しくないですもんねえ。

で、61歳になって、「ん、61?このスージ、なんか聞き覚えがあるぞ、何やったかなあ。ああ、ディランや。」ということで、今回は『追憶のハイウェイ61』。無理矢理ですね。

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いうまでもなく、ディランがロック・サーキットでもトップ・ランナーに躍り出た記念碑的アルバム。というか、このアルバムによって、彼自身がロックの道幅を押し広げてしまった。ポピュラー・ソングにおける「世界」の質量を一気に増加させた『ライク・ア・ローリング・ストーン』を先頭に置いたこのアルバムは、ロックンロールが、ティーンエイジャーのシンプルな娯楽アイテムから、世界と渡り合える武器となり得るまで深化したことを示しました。

なんて、知ったふうなことを書きましたが、こんな評価はロック50年の歴史研究から導かれたものであって、リアルタイムに、特に日本ではその価値に言及した人はほとんどいなかったでしょう。だいいち日本盤『追憶のハイウェイ61』が出たのは、アメリカ発売から3年後の1968年のことですし。

ボブ・ディランという名前についての最初の記憶は、全米チャートトップ10で見た『Rainy Day Women # 12 & 35 』という変なタイトルの歌の演奏者としてです。洋楽チャートに夢中ではありましたが、四国の片田舎のボーッとした中学生には、前衛という言葉さえ未知のもので、はっきりいってわけがわかりませんでした。

70年代になると、ジョージ・ハリスン企画の「バングラデシュ難民救済コンサート」などで、既に神格化されたポジションにいるらしいディランのことを知るようになり、曲も耳にすることが増えました。その頃には(おもにフォーク時代の)ディランに影響を受けた日本人ミュージシャンも多く出てきていました。

でも、『追憶の~』を買ったのは70年代後半になってから。完全に後追いで、世間では既にインテリ層御用達ロックの必須教養アイテムという位置づけだったように思います。まあ、現在でもそこは似たようなもんでしょうが。英語圏の人たちにとっても難解な比喩を畳み掛けてくる長大で饒舌な歌詞、意図的に調和を乱しているとしか思えない歌唱、など日本の一般リスナーには馴染みにくい要素だらけですよね、ディランは。でも、凄いという評価だし、と我慢して呑みにくい薬を流し込むみたいにかなり無理して聴いていると、解らないなりに次第に気に入りの曲もできてくる。たいてい短めで、詞の難解さもほどほどで、メロディアスな取っつきやすい曲ですね。こういうのを聴くとディランの才能が少し理解できた気がします。それと、たいていの場合ディラン本人が歌うより、他の人がカヴァーしたほうが曲の良さがわかる、なんてことにも思い当たり、そこでやはりディランの曲はいいんだねえ!なんて感じること、ありますよね。その頃から30数年たった現在でも私のディラン理解はあまり進歩していませんが、それまでのポピュラーミュージックは、腰から入ったり胸から入ったりがほとんどだったけど、ディランが初めて頭から入る音楽を作った、と思います。めんどうなことやねえ。

ということで、雑誌『ローリング・ストーン』にロック史上最も偉大な曲として選ばれた、アルバム1曲目『ライク・ア・ローリング・ストーン』(ややこしい)の歌詞で締めたいと思います。「転がる」で、うまく今回の駄文出だしともつながりましたし。え、つながってない?


昔、君は着飾って
フーテンたちに10セント硬貨を投げていたね
皆は言ってた
「お嬢さん、気をつけろ。
 あんたはきっと落ちぶれるぜ」
君は皆がからかっているだけだと思っていたろう
フラフラしている人たちを君は笑っていたからね
けど、今は大きな声で話すこともなくなってしまった
次の食事のことを心配しなくちゃならなくなったなんてことが
君の誇りを失わせてしまったんだろう

どんな気持ちだい
家をなくして
完璧に忘れ去られたようだということは
転がる石のようだということは




……。新年らしからぬ、めでたくない歌詞で申し訳ありませんでした。



日は昇り日は沈み、クロディーヌおねえさまは……。

Category : 1960年代/音楽
前回に続き、ストーンズ関連というか、ストーンズきっかけネタです。

年末にローリング・ストーンズ『女たち(デラックス・エディション)』を買いました。前々回書いたように、私は成人してからはストーンズをほとんど聴いていなかったくらいで、熱心なファンではありませんから、買うならオリジナル・バージョンで十分なのですが、未発表発掘音源が多数収録されたデラックス・エディションを買ってしまったのは、この「オマケ」のなかに気になる曲が含まれていたからです。

その曲は『クロディーヌ』。私が少年期の愛聴曲『サンライズ・サンセット』の歌手であるクロディーヌ・ロンジェのことを歌った曲です。

クロディーヌ・ロンジェ

ロックではないし全米チャートの上位に入ったわけではないこのレコードを、なんで買ったのかさっぱり思い出せませんが、買ってからはけっこう繰り返し聴きました。考えてみると、私は「時は過ぎ、幼かった子どもが、はや大人になった、人生、感ありだなあ」みたいなテーマが好きなようです。『ケセラセラ』とか『サークルゲーム』の歌詞が妙に気に入っていますし、このブログのテーマも、まあそのようなもんともいえます。

  ♪抱っこしていた小さな娘
   遊び回っていた小さな少年

   いつのまに彼女は美しくなった?
   いつのまに彼はこんなに背が高くなった?

   日は昇り、日は沈み
   年月は速く飛び去ってゆく
   季節は巡る
   幸せと涙をのせて

こんな感じの歌詞。1964年に初演のブロードウェイ・ミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』の挿入歌だそうですから、クロディーヌ・ロンジェのバージョンは、今ではスタンダード化したこの曲のかなり早い時期のカバーということになります。
ジャケットのポーズからも想像できるようにクロディーヌは、ブリッ子風というか清純派というか、歌い方も「ささやき声(ウィスパ^・ヴォイス)」で、私は知らなかったのですが「ウィスパー・ヴォイスの女王」と呼ばれていたそうです。少年は、オネエサマに耳元で囁かれるのにヨワイんです。


月日は流れ、クロディーヌ・ロンジェのことも何十年も忘れていましたが、昨年末『女たち』を特集した雑誌を読んでいたら、ストーンズが彼女のことを歌った曲が収録されている、と書いてあるじゃありませんか。そして、そこには後のクロディーヌについての衝撃の事実が……。

ストーンズの歌は--

  ♪クロディーヌは刑務所へ逆戻り
   週末になるとしでかす クロディーヌ

   彼女は彼を撃った
   頭に一発 胸に一発
   判事の裁定は事故だった
   事故なら仕方ない そうだよな クロディーヌ

1978年に恋人を撃ち殺したクロディーヌのことを歌ったロケンロールなのでした。

彼女は、彼氏に銃の扱いを教えてもらっている最中に起こった暴発事故だったと主張しました。しかし、銃はかなり離れた距離から2発撃たれており、暴発とは考えにくい状況だったそうです。しかし、そこは陪審員制度の国アメリカです。敏腕弁護士が陪審員の同情を引くあの手この手を使い、みごと禁固ン十日という温情判決を引き出しました。素晴らしい。かの国ではこんなことがよくありますよねえ。劇場型法廷では彼女が好感度の高い国民的大歌手アンディ・ウィリアムスの元妻で、清楚な雰囲気の美人だったことが大いなる利点となったのは間違いないでしょう。その後、彼女は地獄の一歩手前で救い出してくれた敏腕弁護士と結婚し、幸せに(かどうか知りませんが)暮らしているそうです……。


まさにサンライズ・サンセット。月日は巡り、ささやき声のオネエサマも殺人(いや過失致死)者になりました、という強烈なオチ。

ほんと、数週間前に知ったキツイ事実でした。





ロックはストーンズとともに年老い、かつての少年も老年を迎え、でも……。

Category : 1960年代/音楽
昨日のジョギングのBGMはローリングストーンズでした。『ベガーズ・バンケット』、『レット・イット・ブリード』、『スティッキー・フィンガーズ』。1968年から71年、一時期の迷走を脱して腰が据わり、世界一のロックバンドへとのし上がっていく途上の大名盤三連発。

寒い朝に聴くストーンズはいい。ホットで粘っこくて。よく煮込まれたアツアツのシチューみたいに体を温めてくれます。そのぶん夏に聴くのはちょっと辛い。若い人なら暑い季節をより熱く楽しむのでしょうが、この歳になると少々モタレます。


19回目の神経衰弱/Rストーンズ

まったくモタレたりしなかった1966年、14歳の私が、初めて買ったストーンズのレコード。これを選んだのはビートルズのときと同じで、田舎の小さいレコード屋さんではその時点での最新シングルしか手に入りにくかった、という理由だったと思います。

聴いたときの第一印象は、きれいにまとまった曲で、ビートルズより温和しめのバンドという感じ。まだ『サティスファクション』も『一人ぼっちの世界』も聴いていなかったので。いま聴くと、クリアーなギターリフや軽快なリズムが、ビートルズの『アイ・フィール・ファイン』にモロ影響された曲と感じられます。その『アイ・フィール・ファイン』は、ビーチ・ボーイズなどアメリカ西海岸バンドの音作りから学ぶところ大だったと思われ、それが次にバーズなどのウェストコーストのバンドにフィードバックしたりと相互影響しながら、後の西海岸主導のムーブメント「サマー・オブ・ラブ」へと繋がっていったのだと思います。

『19回目の神経衰弱』はそういう流れにある曲なので、先行曲の『サティスファクション』などよりカラッとした軽快感があるんじゃないかなーと愚考します、歌詞は別として。え、的はずれ?

この曲を入口として、前記の『サティスファクション』などに遡りつつ、リアルタイムの『黒く塗れ』などを聴いていくと、最初の印象とは違い、荒々しく不良っぽいバンド像となってきたんですね。若者の不満や苛立ちをテーマにした「元祖パンク」的な世界というのでしょうか。まあ、田舎の呑気な中学生にはさほど理解できませんでしたが。

判官贔屓的性格から、ビートルズよりはストーンズが好きでしたが、その後のストーンズは、まるで阪神タイガースのようにファンをハラハラ、ガッカリさせ続けます。1967年の「サマー・オブ・ラブ」から派生したフラワー・ムーブメントやサイケデリックムーブメントに追従して、というかこれら時代最先端の動きを敏感に取り入れ先頭を切る名曲を連発していたビートルズの真似をして、『この世界に愛を』『ダンデライオン』『シーズ・ア・レインボウ』『ランターン』などを発表しますが、まあこれがいわゆる「スカ」の連続なんですね。誰が聴いてもつまらないぞ、らしくないぞ、ということで人気も急降下、ビートルズにすっかり水をあけられてしまいます。時代がキャラと合っていなかったのでしょう。ストーンズが「髪に花を飾って」も(フラワームーブメントの代表曲『花のサンフランシスコ』の歌詞より)似合いませんもん。

「サマー・オブ・ラブ」のブームが短命で終わったことでストーンズの目が覚めたのか、1968年には、ブルースを根幹に据えたストレートなロックに回帰し、『悪魔を憐れむ歌』『ストリートファイティングマン』を含む名アルバム『ベガーズ・バンケット』を制作します。同時期にシングル『ジャンピング・ジャック・フラッシュ』を大ヒットさせ、ストーンズは復活します。

実は、私は『ジャンピング・ジャック・フラッシュ』は買って聴き、久しぶりの良い曲だとは思ったものの、フラワー・サイケ期でストーンズに対する興味を失っていたため、以後二十数年間彼らのレコードを買うことはありませんでした。つまり彼らの全盛期が始まろうとしたときに私は聴くのをやめたのです。

以前書いたように、高校生時代までに集めたレコードをほとんど処分したこともあり、私の興味は、アメリカの新しいロック、特にニール・ヤングやクロスビー・スティルス・アンド・ナッシュ、ポコなどのウェストコースト系バンドに向かいました。そしてジェームス・テーラーやジャクソン・ブラウンなどアコースティックなシンガー・ソングライター。さらに70年代半ばにはイーグルス。彼等の繊細で叙情的しかも社会性も併せ持つ音楽は、その後永らく私を支配し続けたような気がします。そのせいで70年代音楽については、残念なことにウエスト・コースト系以外あまり知りません。

まあ、私に忘れられても、ストーンズは痛くもかゆくもないわけで、ロックの帝王としてその後も君臨し続けるのでした。

私は、狭義のロックは60年代半ばから始まったとする立場で、ボブ・ディランらと並んでビートルズやストーンズがその創始者だと思っています。当時、彼らの中で最年長のディランやジョン・レノンでさえ25歳、つまりまだ歴史というものがないロックには若者しかいなかったのです。中年のロッカーなんて想像しにくかったし、ましてやロックをやる老人なんて!

I hope I die before I get old. Talking about my generation
歳とる前に死にたいぜ 俺たちの世代のことについて話そうや
                                     (ザ・フー『マイ・ジェネレーション』)

なんて、イキガッテみせることができたのです。ところが時は流れて………ジジイになってもロックやってる!歳とる前に死にたいと言ってた(歌の中ですが)フーのピート・タウンゼントも、しっかり長生きしていまだにステージに立っているし、御大ストーンズはもちろんバリバリの現役バンド。ほんの数年前にもライブを記録した映画が公開されました。その中では、65歳を過ぎたミック・ジャガーが歌い踊りながらステージ中を駆け回っています。

何なんだろうこれは。若い頃に、ミックが70になってもロックやってたら笑えるねえ、と冗談みたいに想像したことが現実になっている。そして14歳の頃には絶対想像できなかった自分の60歳が、あと10日でやってくる。遠いところにあると思っていたものが、実は近くにあったんだという感覚。んー。


還暦を目前にして少し感傷的になりました。オレは何を書きたかったのかな。ここんとこ全然話が整いません。えっ、ずっと? じいさんになってもロックが楽しめるなんて幸せだねえ、ということで今日は失礼します。

たぶん本年最後のブログになると思いますので、ご挨拶。

ご愛読下さったごく少数の皆様、よいお年を。

来年も暇があったらお読みください。








『スマイル』は、本当に笑顔をくれた。

Category : 1960年代/音楽
ビーチボーイズ・スマイルとデラックス


ビーチボーイズの『スマイル』が出ました。

うかつなことに、新聞で初めてそれを知ったのですが、最初は、ウソやろ、スマイル関連の未編集テープがコレクターズアイテムとして発売されただけじゃないの、と思っていたら、なんと、アルバムとして完成した『スマイル』が今月発売されたというのです。ちょっと、いや大変驚きました。

んー、興味ない方には、何のこっちゃと思われると拝察いたしますが、これは音楽界の「大事件」であり、私にとっても感慨深いものがあるのです。どういうことかというと――。

私が生まれて初めて購入したLPが、ビーチボーイズのベストアルバム『ビーチボーイズ・デラックス』。1967年、高校1年の夏でした。大ヒット・シングル『グッド・ヴァイブレーション』を目玉にした日本編集のアルバムです。このアルバムは高校生の間中ほんとに聴き倒し、いまでも全曲を1コーラスは空耳英語(出鱈目ということ)で歌えます。

このアルバムの解説文に、次に発売予定シングルは「英雄と悪漢」であると紹介されています。そしてこの曲を含んだ次のアルバム『スマイル』が程なく発売される予定で、本国アメリカではラジオコマーシャルが流れ、アルバム・ジャケットまで完成していました。

しかしこのアルバムは、発売延期を繰り返しながらついに完成せず、1967年内に制作中止が決定され、膨大な量の未編集録音テープがお蔵入りしてしまいました。

それが、紆余曲折を経て、今月(!)発売されたのです。

その『ビーチボーイズ・デラックス』と今月発売の『スマイル』を並べて撮影したのが上掲写真。この2枚、本来なら数ヵ月の間隔で発売されていたはずなのです。それが44年もかかっちゃいました。44年というと、コーガンの美少年(私のこと)が白髪混じり老斑満開の還暦男になってしまう年月なんです。なんという悠長な話じゃ。

44年の間に、膨大な量の「スマイル伝説」が積み上げられてきました。
『スマイル』が完成されていたとしたら、それはどんな内容になっていたのか、ビーチボーイズ=ブライアン・ウィルソンがそこで何を創造しようとしていたかについて、幾多の推理がなされ、議論が飛び交い、想像が広がっていきました。その数の多さは、気が遠くなるほどです。「スマイル専門」の研究者もいるそうです。
「音楽史上もっとも有名な未完成アルバム」とも呼ばれてきて、完成形が存在しないアルバムだからこそ、多くのファンが想像の翼を羽ばたかせてそれぞれの『スマイル』を描いてきたのですが、それが現実に発売されてしまいました。マニアックなファンの心境やいかに。これから頻出してくるだろう「スマイル論評」が楽しみです。


それにしても、なぜ1960年代の、いちポップバンドの未発売アルバムが今になって発売され、そのことが世界的な話題を呼ぶのか。それは、ビーチボーイズというバンドの特異性と、天才といわれるブライアン・ウィルソンの創り出す優れた音楽、彼を次々と襲う不幸、波乱万丈の人生などが、とても興味深く壮大な物語であるからでしょう。ロック伝説として有名なブライアンとビーチボーイズの軌跡を、拙い文章で少し辿ってみましょう。


ビーチボーイズで一般にいちばん知られている曲は『サーフィンUSA』でしょうか。
1960年頃、アメリカ西海岸の若者の風俗から生まれたサーフィン・ホットロッド・ミュージックがブームとなり、海とクルマと女の子をテーマにした陽気でお気楽な音楽を奏でるアマチュアバンド(自宅のガレージで練習することからガレージバンドと呼ばれる)がバブルのようにたくさん生まれました。
ブライアン、デニス、カールのウィルソン3兄弟と従兄弟のマイク・ラブ、ブライアンの友人アル・ジャーディンで結成されたビーチボーイズもその中のひとつでしたが、彼等は他の素人バンドに比べて抜群にハーモニーが上手くアンサンブルがしっかりした、飛びぬけた存在だったようで、まもなくプロデビューします。何曲かのサーフィンソングのマイナーヒットの後、チャック・ベリーのロックンロール曲にオリジナルの歌詞をつけ、軽快なコーラスアレンジを施した『サーフィンUSA』の全米大ヒットを放ちます。

 ♪もしアメリカ中のどこにでも海があったら
  誰もがカリフォルニアみたいに サーフィンをやるだろうね
  みんなバギーパンツにサンダルはいたボサボサ頭で
  サーフィンUSAさ
  

これが、ビーチボーイズのパブリックイメージを決定付けました。白いチノパンツとストライプのシャツのユニフォームで、海と太陽、学校の放課後、車や女の子など、ティーンエイジャーの関心事を歌う爽やかなバンドとして、次々とヒット曲を放ちます。ビートルズが突如ブレイクした64年から始まったブリティッシュ・インベイジョン(イギリスのバンドによるアメリカヒットチャートの席巻)に対抗できる唯一のアメリカバンドとも言われていました。

ビーチボーイズの曲のほとんどを作曲しプロデュースしていたのが、ブライアンウィルソン。人気バンドとしてハードなツアーをこなし、マネージャーである少々異常な父親と、営利至上主義のレコード会社に圧迫されながら、ほとんど独りで、超大物バンドとなったビーチボーイズの根幹を支えます。ビートルズで言えば、ジョンとポールとジョージ・マーティンの役割を独りでこなしていたことになるのでしょうか。

ハードな日々の重なりの結果なのか、ツアー中の飛行機の中でついに、ブライアンの精神はパニックを起こしてしまいます。そしてそれ以降、ライブ・ツアーに出ることを止め、スタジオ作業に専念することになります。

そんな折、ビートルズの『ラバー・ソウル』が発表されます。
このアルバムは、メロディーやリズムそして歌詞の斬新さ、実験性に満ちた画期的なものでした。シングルヒット曲とおざなりな埋め草的な楽曲で構成された、物好きなファン向けのレコードという位置づけだったそれまでのアルバムに反し、『ラバー・ソウル』は全てクオリティの高い楽曲のしかも全て新曲で構成され、それらは(イギリス本国では)シングル・カットもされず、アルバム中心で自分たちの世界を表現していくという現在のロック音楽発信形態の、起源となったアルバムでした。

ストライプシャツで南カリフォルニアのティーンエージャーの風俗を歌うポップバンドからの脱却を模索していたをブライアンは、『ラバーソウル』に衝撃を受けます。
自分が創りたいのはこういうアルバムだ、と思ったブライアンは、『ラバー・ソウル』を超えるアルバムを創ろうと、『ペット・サウンズ』のレコーディングにとりかかります。
ビーチボーイズのメンバーがワールドツアーに出かけている間に、詞のパートナーにライターのトニー・アッシャーを据えてアイデアを伝え、スタジオ・ミュージシャンを集めて演奏を次々と録音し、ガイドボーカルを入れて曲のほとんどを完成させてしまいます。傑作アルバムができたと彼は確信しました。
ツアーから戻ってきたメンバーには、完成した曲にブライアンの指示通りにボーカルを入れる作業しか残っていませんでした。しかもこれらの曲にはビーチボーイズに定番の海も太陽もクルマも出てこず、内省的な心情が歌われているばかりで、曲調もビーチボーイズのイメージに反した暗いものでした。
これらのことにメンバーは反発します。とくにマイク・ラブは「こんな曲を誰が聞くんだ。犬か。」と罵詈雑言を投げつけたといいます。

 ♪自分がとけ込める場所を探し続けているんだ
  だけど僕は思っていることを
  口に出すことができない
  いつまでも付き合えるような人たちと
  何とかして知り合いたいと
  僕は必死になっているんだ

                  (「駄目な僕」)


『ペット・サウンズ』は、大方のl危惧通り、それまでのアルバムに比べて売れ行きは芳しくはありませんでした。太陽も海もキャッチーなメロディーもでてこないビーチボーイズの歌に、ファンもレコード会社もメンバー自身も戸惑っていました。私もしばらくは、とっつきにくい退屈なアルバムだと感じていたものです。現在では、60年代ロックで最も優れたアルバムと誰もが認める超名盤で、全世界で累計900万枚も売れていますが、同時代にはすんなりとは受け入れられませんでした。

ブライアンは、このことにひどく傷つきましたが、創造意欲のスイッチが入りっぱなしになっていた彼は、さらなる高度さらなる深度を目指して、次のアルバムの制作に着手します。
今度は作詞家として、ヴァン・ダイク・パークスを迎え、彼との協同で、『ペットサウンズ』におけるパーソナルな精神性から、視野を広げアメリカ開拓史にまで遡ったアメリカの歴史までを織り込んだ、「アメリカへの壮大なトリップとユーモア」「神に捧げるティーンエイジ・シンフォニー」(ブライアン)を創ろうとします。『ペットサウンズ』以上の傑作を創るべく、ドラッグの力を借りてレコーディングにのめり込みますが、アイデアの断片が積み重なるばかりで、何カ月たっても曲はなかなか完成しません。ブライアンの奇矯な行動も目立つようになります。

そしてここでも、マイク・ラブが反発し、歌詞の意味を説明せよと迫って、ヴァン・ダイクが詩の講釈などできないと答えると、「本人に説明できないような歌詞を俺たちに歌わせるのか」と激怒したといわれます。
進まぬプロジェクトに嫌気がさしていたヴァン・ダイクは、このことが引き金となり、ブライアンの元から離脱してしまいました。

ブライアンは、ヴァンダイク抜きでレコーディングを続行しますが、業を煮やしたレコード会社は『スマイル』の制作中止を決定してしまいます。レコーディング開始から10ヵ月後のことでした。

そして、ブライアンはドラッグによる精神破壊が進行し、以後20年もの間、半ば廃人状態となり自宅に引きこもります。

『スマイル』となる予定だった曲の何曲かは、残りのメンバーにより手を加えられて完成され、その後数枚のアルバムに切り売りのかたちで収録されますが、ブライアンが本来目指していたものとは別の作品になっていました。

しかし信じられないことに、20年後の1988年、懸命のリハビリと周囲のサポートにより、ブライアンは奇跡の復活を遂げます。精神も体力も徐々に回復して、やがて世界ツアーをこなすまでになりました。そのなかで、『ペット・サウンズ』全曲ライブ演奏ツアーが企画され、大絶賛されます。やがてその流れは『スマイル』へとたどり着き、2004年、ブライアンはついに『スマイル』を完成させ、ライブ演奏発表し、さらに新録音によるソロアルバムとして発表します。

これで、長い長いスマイル伝説も終わったと思われました。しかし、まだ続きがありました。

それは、誰もが望みながら不可能と思われていた、1966~67年に録音された音源で「ビーチボーイズの『スマイル』」を完成させるというプロジェクトです。優れたスタッフと最新のテクノロジーを駆使し、ブライアンとマイク・ラブ、アル・ジャーディンの監修の元、ビーチボーイズの『スマイル』は、制作開始から44年目に完成しました。
少年の頃から一緒に歌ってきた2人の弟、デニスとカールはすでにこの世にいません。

 ♪波が立った
  潮の流れに乗れ
  さあ若者に混じって激しく
  時には跳ねることも
  
  僕は素晴らしい歌を聴いた
  子供たちの歌を
  子供は…… 大人の父なんだ
           
                 (「サーフズ・アップ」)


「そう、だから僕は笑ってみせる。カールとデニスが今ここで、この瞬間を共有できないとわかっていても、涙をふいて僕は笑ってみせる。そして願う。どうかこの音楽で、君も笑顔になりますようにと。それが昔、僕がこれを書いた理由だから」(『スマイル』に寄せたブライアン・ウィルソンの言葉)




各種資料を読みながら、そして『スマイル』を聴きながら、何日間かに渡ってこれを書いてきました。その間中、じんわりとした幸福感に包まれていた気がします。『スマイル』は44年遅れても世に出るべき美しい作品でした。こういうことがあると、人生も捨てたもんではないぞ、と思えます。
これを伝えられる表現力の不足にもどかしさを覚えつつ、長い『スマイル』編を終わります。







メイアルバムノ シュジンコウノソバデ イツモシズカニワラッテイル ソーユーヒトニ ワタシハナリタイ

Category : 1960年代/音楽
今年のお盆休みは、いかにも夏!という晴天続きでいいですね。私は、ゴールデンウィークのときと同様で、ずっと仕事でした。皆が休みの時に仕事していると、すごい働き者になったような気がしていいもんですよ、グスン。

で、本日は終戦記念日にして月遅れのお盆ということで、初盆を迎える2人が写ったレコードジャケット2点。両方とも、ロック史上五指に入るのは間違いない超人気ジャケットです。それぞれのジャケットに相手役として登場した二人が、今年相次いで亡くなりました。


B・ディラン/フリー・ホイーリン

ボブ・ディランのセカンドアルバムにして出世作『フリー・ホイーリン』。若き日のディランと、1963年のニューヨーク・グリニッチヴィレッジの雪道を歩くスーズ・ロトロ。このとき20歳。寒そうに肩をすぼめて俯いたボブと、ポッケにつっこんだその腕に抱きついてカメラ目線でにっこりしているスーズの対照が面白く、微笑ましい。
「オ、オイ、そんなにひっつきなや。カメラさんが見ゆうろう。」
「何言いゆうぞね。カメラは見んと撮せんやいか。ニューヨークではこれっぱあ常識よえ。あんたも田舎から出てきてもう何年にもなるがやき、都会風に馴染まないかんでえ。」



B・スプリングスティーン/born to run

ブルース・スプリングスティーンの1975年のサードにして初の大ヒットアルバム『明日なき暴走(BORN TO RUN)』。バックバンド「Eストリート・バンド」のなかから、ひとりでブルースと絡むサックスのクラレンス・クレモンズ。このとき33歳。こっちはブルースのほうがやたらうれしそうにクラレンスを見ています。こういう場合のロッカー同士の話題は決まっています。
「グフフ、ゆうべのグルーピー、カワイかったねや。」
「ボバベ、ボビブビベ、ボバベババベバッババボ、ボボベベバビババ(お前、飲み過ぎて、ボラレただけやったがを、覚えてないがか。)」


スーズ・ロトロ、2月24日永眠、享年67歳。

クラレンス・クレモンズ、6月18日永眠、享年69歳。


継子ゆえに生き延びたモンキーズが今では愛おしい

Category : 1960年代/音楽
その1
ある野球チームが遠征で移動するときは、レギュラー・メンバーは旅客機のビジネスクラスで快適に、控えのメンバーは夜行列車で寝不足気味に移動するのが常でした。あるとき、レギュラーが乗っていた飛行機が墜落して全員死亡し、列車移動の控えメンバーだけが生き残って無事遠征先に到着しました。

いや、ちょっと違うなー。

その2
ある意地悪な継母は、継子(ままこ)に留守番をさせて、実子だけを連れて、温泉旅行に出かけました。継子が一人で冷や飯とカップ麺の食事をしている頃、母子は旅館の豪華な料理に舌鼓を打っていました。ところが、母は旅役者と恋に落ち、子供を捨てて駆け落ちしてしまいます(どんな時代設定や)。取り残された実子は富士の樹海をさまよい、遭難死してしまいました。継子は家を守り、苦難を乗り越えなんとか成人しました。

うん、こんな感じ。

いったい何のハナシか! と言いますと、これは、我が家にあるシングル・レコードたちを見ると、時々思い浮かべる村芝居的ストーリーなんですネ。


1970年春、高校を卒業して上京(横浜市でしたが)する際、それまでシコシコ買い集めたシングル・レコードのうち、気に入ったものだけを選んで持って行きました。
それからの数年間は、自分にとってのシュトルム・ウント・ドランク(疾風怒濤)の時代。というかそんな勇ましいもんではなく、まあ田舎出の少年が新たな世界、価値観に出合い、その中で右往左往、転がり続けていただけなのですが。
そんなある時期、音楽が急につまらなく思えてきて、発作的にレコードも再生装置も全部処分してしまいました。若気の至りというか、過去を否定し捨て去りたい衝動に駆られたのでしょう。よくあるハナシですね。
職場の同僚に二束三文で売り払ったのは、ビートルズ、ストーンズ、アニマルズなど、少年期の5年間をかけて集めた60年代ロックのシングル盤の数々。
あの時処分しなければ、とその後繰り返し繰り返し、いまに至るまで悔やみ続けて40年……。

というわけで、お気に入りのレコードたちは失われ、そうでもないレコードたちが実家で生き延びることになりました。

長い前置きになりましたが、そんなふうにして生き延びた継子的な代表が、本日紹介するザ・モンキーズ。

モンキーズ/恋の終列車

モンキーズ/アイム・・ビリーヴァー

モンキーズ/恋はちょっぴり


モンキーズ雑誌切抜き

モンキーズは、ロックとポップスが分化する以前の黎明期の終わり頃に、突如現れた人気グループでした。

デビュー曲『恋の終列車』は、そこそこ良い曲で、まとまりのある上手な演奏だな、というのが中学生の私にも解りました。それもあたりまえ、演奏していたのはモンキーズではなく一流のスタジオ・ミュージシャンだったのですから。そのせいか、なにか手慣れた感じというか、新鮮さのないような印象も同時に感じたような気がします。

でも第2弾の『アイム・ア・ビリーヴァー』は、そんなことを吹き飛ばす勢いの、文句なくカッコ良い曲でした。この際誰が演奏しててもええやん、という感じ。キーボードとギターによる短く軽快なイントロからミッキー・ドレンツが、ちょっとハスキーな声で「恋なんてお伽話のなかだけのことだと思っていたよ、君と出逢うまではねー。」みたいなことを歌い始める。この中学生にも解るシンプルな歌詞がグッときましたね。低音部で旋律を短音弾きするという斬新なオルガンソロの間奏もメチャカッコ良く、現在聴いても色褪せず、とても魅力的な曲です。作詞作曲者のニール・ダイヤモンドは、その後70年代に大物人気ポップス歌手となります。

カブレやすい14歳だった私は、ギターのマイク・ネスミス(楽器が苦手なモンキーズの中で、彼だけはマトモに弾けたそうです)にカブレて、彼のトレードマークである毛糸の帽子を真似してカブってその気になったりしておりましたよ。

(掲載4枚目の写真は、ジャケットに挟んであった1967年当時の『ミュージックライフ』のグラビア切り抜きです。)

今では周知の事実ですが、モンキーズは周到なプロダクト・システムによって、チャートNo.1の人気バンドを最初から狙い、歌う曲、バックで演奏するミュージシャン、主演するテレビ番組などすべて用意した後、オーディションでメンバーを集めた、完全に「作られた」バンドでした。ルックス等アイドル的な面を重視して、音楽の実力は二の次でしたので、テレビ番組が終了すると人気が急降下していったのは仕方ありません。うちの地元ではハナから、テレビ番組(ザ・モンキーズ・ショー)は放映されていませんでしたが、私も5枚目シングル「デイドリーム(ビリーバー)」(現在ではモンキーズといえばこの曲)を境にして、急速に関心を失っていきました。

そういうわけで、上京選抜メンバーからも漏れてしまったため処分を免れ、モンキーズのレコードは現在も私の手元に残っているのです。このことになんかウンメイのキビみたいなものを感じて、つい冒頭のような村芝居ストーリーを思い浮かべてしまうというわけなのです。禍福はあざなえる縄のごとし、というか、幸不幸がある出来事により一瞬にして逆転する。世の中の控えメンバーだったり継子だったりの人生も、結果良かったことになるかもしれない、なんて思えませんか。え、思えない? そうですよねえ。(いったいどっちじゃ)。

そりゃ、処分してしまった1軍のレコードのほうがいいに決まってますけど、こうして生き残ったモンキーズのシングル盤も、ほんとうに何十年ぶりに聴いてみると、なかなか味わい深いものがあります。この他の地元残留レコードの中には、ドアーズやジェファーソン・エアプレインなど人気・実力を兼ね備えたバンドもありますから、そう悲観することはありませんよ(誰を慰めているんだ)。

今回は、所蔵シングル盤のウンメイから人生に思いをはせるという、タイトルに反した「深い」内容でした。え、やっぱり浅い? そうですようねえ。


その夜は、テレビの前で息をつめて身構えていた

Category : 1960年代/音楽
中学3年生(1966年)時の音楽生活で、いちばん大きなイベントといえば、やはりビートルズの来日でした。芸能・スポーツなどのジャンルを越えて、広く大きな関心を集めることを「社会現象」化する言い慣わしますが、昭和元禄と呼ばれた60年代で、毀誉褒貶入り乱れた、まさに最大の社会現象となったのが、ビートルズの来日だったのではないでしょうか。

私が住む片田舎の書店にさえ、たくさんのビートルズ特集雑誌が並びました。音楽専門誌がそれほどなかった時代なので、新聞・文芸系出版社のものが多かったように記憶しています。私は『週刊読売』の来日記念増刊号を買いました。ビートルズの写真に添えられた寺山修司の詩のなかに、彼等の歌が「オペラ歌手の喉を切り裂いて」生まれてきた、という箇所があり、新しい時代の到来を示唆する鮮烈な表現として強い印象を受けました。

そして7月1日夜、ついに前日の武道館でのビートルズ公演がテレビ放映されました。

ビートルズ来日

その時、テレビの前に他に誰が座っていたか、小学校高学年だった上の妹は間違いなくいたな、親と低学年の下の妹と保育園児の弟はどうだったか覚えてないけど、とにかく全員に、ぜったいに声を出さないよう命じて、番組が始まるのを、まさに固唾を呑んで待ちました。
なぜかというと、そのとき我が家には、一般家庭にはまだ珍しかったテープレコーダーがあり、それにビートルズ公演を録音しようとしていたのです。ライン録音端子などありませんから、マイクをテレビの前に置き、他の音が入らないように、全員喋らず物音を立てずに座っていなければならなかったのです。

昔のテープレコーダー

おおよそ上掲写真のようなテープレコーダーでしたが、なぜこんな身分不相応なものがあったかというと、親戚のオジイサンさんが、たしか遺言録音用に買ったということで、たぶん私がねだったせいでしょうが、気前よく譲ってくれたからでした。

E.H.エリックの紹介で登場して、後ろ向いてギターのチューニングをしていたかと思うと、突然振り向いてジョンが『ロック・アンド・ロール・ミュージック』を歌いだします。なんというカッコよさ!
前座では、望月浩という青春歌手が、
  ♪ぼくのエレキは 君にしびれて ドキドキドキ とまらない~
なんて、今思うとアホな歌詞の歌を歌いましたが、もちろんそれは録音しませんでした(けっこう好きな曲ではありましたが)。

このテープは、その後何年にもわたって、ほんっとに愛聴し続けました。

翌67年には、史上初の全世界同時衛星中継番組というのがあり、イギリスからはビートルズによる『愛こそはすべて』の演奏が中継されることになっていました。もちろんこの番組も、録音の用意をして待っていたのですが、ビートルズの登場が夜遅くの時間だったため、不覚にも眠ってしまい、目を覚ましたら終わっていました。

新聞配達で早起きしていたため夜に弱かったわけですが、もう、その悔しかったことといったら、ホント夜も眠れないくらいでしたよ。

洋楽事始は、やはりビートルズだった

Category : 1960年代/音楽
ビートルズの名前を初めて聞いたのは、1964年4月に中学生になって何カ月か過ぎた頃でした。

「ビートルズゆーグループが流行りゆーらしいで。♪イエー ユー タカションベン、ゆーてラジオでかかりよった」という、いま思えばなんともマヌケな情報を小耳にはさんだのが最初でした。海の彼方のアメリカでは4月4日付全米チャートで、ビートルズが1位―5位独占という人気爆発を起こしていて、日本にもその振動が伝わってきていたのでしょう。しかし未開地の少年は、まだ青春歌謡ばっかり聴いていた頃なので、「鷹ションベン? 変な歌やねや」と感じただけで、もちろん聴いてみようとは思いませんでした。

中2になって、Y君という露天商の元締めの息子と仲良くなり、家へよく遊びに行きました。彼はステレオを持っていました。ステレオといえば、音楽の時間に講堂で、汽車の音のレコードを聴かされたことくらいしかなくて、ほんまに目の前を汽車が移動しよるみたいなねえ、すごい!なんて感動してた原始的時代ですから、それは高価で希少なモノでした。

昔のステレオ

当時のステレオと言えばこんなふうな豪華な家具調のヤツ(写真はササキジンさんという方のブログから拝借)。そのステレオで、Y君がビートルズの「ロック・アンド・ロール・ミュージック」をかけてくれたのでした。それが最初にちゃんと聴いたビートルズ。短いイントロからいきなり始まる歌が、ステレオからでっかい音で飛び出てきて、それは驚きました。なんとかっこええ歌ながぜ! ステレオで聴く音楽はなんてシビレルがぜ!

電蓄

私のウチでは、写真のような感じの電蓄しかなくて、その内蔵スピーカーの音があまりにショボイので使い古しのラジオに繋げて聴いていましたが、ステレオでビートルズを聞いてしまったものですから、もうアキマセン。父親に懇願して、新聞配達で貯めた金の足りない分を補ってもらい、さっそくステレオを買いました。そして、初のビートルズのレコードも。

help_the beatles

買ったのは、その時点での新譜の『HELP!/I'M DOWN』。
メインボーカルを追いかける軽快なコーラスがカッコ良い『ヘルプ』も気に入ったけど、物凄いシャウトの『アイム・ダウン』にシビレました。もう最後のほうなんかわめきちらしているだけで、こんな曲もありなんだということに驚きました。いま考えると、初めて買ったのが、たまたま、ビートルズの全曲を通じて一、二を争うシャウト・ソングだったわけですが、そのときは何も知りませんから、何と狂ったような連中やと思いましたよ。

それからは、後追いで(といってもビートルズのレコードが日本で発売されだしてから1年半しか経っていませんでしたが)、以前のレコードを買い集めました。旧譜を探すときは、地元のIレコード店に行きました。店主は、わが母校の校歌を作曲したアマ音楽家でもあったようですが、無愛想で恐い顔をした人で、店に入るのにも勇気がいりました。けど、探している古いレコードがあったりするので、重宝するお店でした。まあ、あまり商売気もなく品物の回転が悪かったのが幸いした?のでしょうね。このお店は、現在でも存在しています。ただし、販売はせず、博物館みたいに陳列しているだけということですが。

当時買っていたのは、もちろんシングル盤。LP盤(アルバム)はとても高価で、今の貨幣価値に換算すると15000~20000円くらいのはずですので、中学生には手が出ず、お店の壁面の高いとこに飾ってあるのを眺めるだけの、まさに高根の花でした。
ところがある時、父の友人が「ウチにビートルズのエルピーがあるで。ウチでは誰も聞かんき、おまん、聞くかよ」と貸してくれたのが、『MEET THE BEATLES』。日本におけるビートルズのファーストアルバムでした。

ミートザビートルズ2

これを2年間くらい借りっぱなし、ほんとうに擦り切れるくらい聴き倒しました(写真はBEATLES-1ブログより拝借)。
周知のようにこのアルバムは、本国イギリスでのオリジナルファーストアルバム『Please Please Me』とセカンドの『WITH THE BEATLES』の2枚のアルバムからの抜粋と、シングル大ヒット曲『 抱きしめたい(I WANT TO HOLD YOUR HAND) 』『シー・ラブズ・ユー( SHE LOVES YOU)』を収録した初期のベストアルバムのような構成で、ジャケット写真はセカンドのものを使ってました。なんてことは、私を含め当時の日本人はまったく知らなかったわけで、『MEET THE BEATLES』から漏れた上記2アルバムの収録曲は、それから10年経って日本でようやく初期オリジナルアルバムが発売されるまで、ほとんどの人が聞いたことがなかったのではないでしょうか。
天下のビートルズといえども、当時はそんな扱いだったのですね。

おっと、忘れるところでした。冒頭の「タカションベン」が出てくる曲は、もちろん『抱きしめたい』です。サビに続いての「Yeah, you got that something」のところが、たしかにそのように聞こえなくもないですね。

眠くなったので本日は終わりますが、ビートルズの話は次回も続けます。
プロフィール

Author:オジイ川端

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