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あの時、とでん西武からグレイスランドへ

Category : 1980年代音楽
このところ、ポール・サイモンにハマっています。先日、ジョギング中にWalkmanで彼のベストアルバムをかけたとき、それまで何度も耳にしたはずの「グレイスランド」が、ひどく鮮烈に響いたことがきっかけでした。
その朝はとても良い天気で、川のせせらぎに太陽光が反射し、「The mississippi delta was shining Like a national guitar(ミシシッピ・デルタはナショナル・ギターのように輝いていた)」という「グレイスランド」の冒頭の歌詞がとてもマッチして心地良く、足取りが弾んだのでした。

これはいいぞと感じ、帰宅してYouTubeで映像を捜したら、ちょうどそのときの気分に応えてくれる最高のライブ映像に当たりました。
2012年にハイドパークで開催された「ハード・ロック・コーリング」フェスでの、「グレイスランド~ユー・キャン・コール・ミー・アル」の演奏で、まあこれに激しく感動して、それまでは、曲単位では好きなのもあるけどミュージシャンとしてはまあまあそこそこ、という好感度だったのが、わずか一日で、猛烈なポール・サイモン・ファンになってしまったのでした。

2012年はアルバム『グレイスランド』発表25周年で、その記念企画としてポールは同作録音以来初めてその舞台となった南アフリカを再訪し、25年ぶりに現地の同作レコーディング・メンバーと再会し、セッションとライブを行いました。そのメンバーをそのままロンドンに伴っておこなったのが上記フェスでのライブだったのですから、『グレイスランド』演奏には最高のメンツで、その本物のノリに、観客も大熱狂。「コール・ミー・アル~」の大合唱シーンには鳥肌が立ってしまったぞね。

個人的に、この時点で彼が71歳であること、身長が160cmであることが、すごく励みになりますね(笑)。チビでジジイのオレも、あと10年ガンバロウと。

で、にわかポール・フリークと化し、その『グレイスランド』25周年記念盤、最新のライブBlu-ray、それから上記フェスでのポール・ライブの海賊盤DVDまでイッキに購入してしまいました。


graceland.jpg

Live in New York City


25周年記念盤でCDとセットになっている映画『アンダー・アフリカン・スカイズ』のDVDが素晴らしい。これはポールが25年ぶりに南アフリカを再訪し、『グレイスランド』をめぐる人々と出来事を再確認するドキュメンタリーで、ハイライトとなるのは、当時の南アフリカの反アパルトヘイト運動の指導者とポールとの会談です。

『グレイスランド』誕生のよく知られた経緯をざっとおさらいします。

70年代後半からのポール・サイモンは、アルバム『ワン・トリック・ポニー』『ハーツ・アンド・ボーンズ』が続けて商業的に失敗し、音楽シーンがパンク・ニューウェイブへと移行したこともあり、もはや過去の人となりかけていました。苦境の中で次の方向を模索していた84年頃、彼は1本のカセットテープと出会います。南アフリカの地域音楽を録音したテープでした。それはポールの心を強く惹きつけ、数ヶ月間そればかり聞き続けたといいます。情報を収集し、他の南アフリカ音楽をも聴いてゆくうち、彼はどうしても現地に行ってそれらを録音し、そこから何かを始めたいと強く思うようになります。
当時の南アフリカ共和国は、アパルトヘイト(人種隔離政策)のため、国連による文化ボイコット制裁を受けていました。そこでポールは、南ア事情に通じているハリー・ベラフォンテらに相談します。彼らのアドバイスは、民族解放団体に根回しして了解をとりつけろ、という主旨でした。しかし、音楽が政治的思惑に左右されることに納得がいかないポールはこれを拒否して、直接南アフリカの黒人ミュージシャンの意向をリサーチします。彼らの回答は、ポールを南アに迎えて一緒に録音したい、というものでした。
ポールは南アに行き、地元ミュージシャンと2週間セッションし、数々のトラックをを録音します。それを持ち帰り、編集とアレンジ、歌詞を加えてから、南アのミュージシャンをニューヨークに招き、作品を完成させました。
こうして作られたアルバム『グレイスランド』が1987年に発売されると、その斬新な音楽性が受け入れられ世界中で大ヒットとなりました。
ところが同時に、アフリカ民族会議などの黒人解放組織や反アパルトヘイトの白人陣営から、激しい非難にさらされることになります。文化ボイコットを破り南ア音楽家と共演したことは、アパルトヘイトに加担したという論理です。そして南アの民族音楽をアメリカ資本が侵略したという見方もされたようです。さらに録音に参加した南アのミュージシャンたちまでも非難されます。
ポールのとった行動は、あくまで、出会った素晴らしい音楽をベースに新たな地平を切り開きたいという音楽的情熱に基づくものであり、それ以外の思惑はありませんでした。ポールの解釈では、南アに出向いて差別側白人のためにコンサート等をすることを拒否する、のが文化ボイコットであり、差別される側の黒人ミュージシャンとともに録音することは文化ボイコットに反しないだろう、という考えでした。また南アの黒人ミュージシャンは、ボイコットで閉ざされた自分たちの音楽を世界に知らしめる良い機会だということで参加したのであり、差別されている側の自分たちが、さらに反差別側に非難されるという二重苦は納得できないことでした。
当時の政治状況の中で、予想以上の批判にさらされた『グレイスランド』でしたが、アルバムの優れた音楽性に押され、ついに国連が『グレイスランド』は文化ボイコットに反するものではない、という声明をだし、直後に行われたツアーの素晴らしさが、そのことを証明しました。そこには人種を越えた音楽の躍動、歓びがあったのです。


『アンダー・アフリカン・スカイズ』では、当時ポールの行動を非難した黒人指導者と対話し、和解します。文化ボイコットは南ア政府を孤立させるために必要な制裁だった、ポールは不幸な時代に遭遇したのであり、今となっては君の成果を讃える、と指導者は言い、ポールは自分にも配慮が足りなかったことを詫びました。25年を経てわだかまりがとける感動的なシーンでした。

とまあ、にわか仕込みのお粗末な『グレイスランド』ストーリーでした。

んー、以前、ライ・クーダーを引き合いに出して、当時の風評を真に受けたポール観を書いてしまったことを反省する私です。数日の間にすっかりポールを見直したぜ。え、遅すぎる? すみません。

チョー久しぶりの記事も相変わらずまとまりがありませんが、最後に想い出をひとつ。

『グレイスランド』は、リアルタイム(1988年頃)ではレンタル・レコードをテープに録って持っていました。妙に記憶に残っているのは、5歳の息子を「とでん西武デパート」の屋上遊技場で遊ばせながら、それを初代Walkmanで聴いていた光景です。二人目の子はまだ2歳で、将来の見えない漠然とした不安感の中で過ごした正月休みのデパート屋上、その気分に不思議にフィットする、明るく乾いて弾んでいるけどどこか寂しげな楽曲、それが「グレイスランド」でした。
当時、歌の内容など知りませんでしたが、今になって訳詞を読んでみると、なぜあのときの気分にフィットしたかがわかります。

 ♪グレイスランドへ行くんだ
  貧しい少年達と巡礼者の一族
  そして僕等がグレイスランドへ向かっている
  僕の旅の道連れは9歳の子ども
  最初の結婚で生まれた息子だ
  グレイスランドは
  二人を受け入れてくれる
  そう信じる理由が僕にはある


そうか、あのときオレもグレイスランドへ行こうとしていたんだ、と思えてくるのです。





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