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野外フェスの原点は友達の妹の想い出

Category : 1970年代/音楽
投稿の間隔が次第に開いてきて、とうとう3カ月ぶりになってしまいました。思い返してみれば、ミクシイに書いていた頃からそうなのですが、生活の中でいかにもブログネタになりそうな大きな出来事があると、そのことで充足してしまったり、事実に力負けしてしまったりして、記事にする気がなくなるというか、機を失してしまう傾向がありますね。

4月に初めてフルマラソンを走ったという私的には大きなネタも、感慨に浸っているうちにボストンマラソン会場で爆弾テロが起こったこともあり、書くタイミングを逃しました。

やはり、ついた餅は熱いうちに丸めなきゃいけません。というわけで、仲間達と数日前(5月3日)に開催した小さな野外フェス。秋がいいか春にするか、と実施時期を模索していて1年半ぶりの開催となりました。

susumu2013.jpg

若い世代が主催するフリーマーケットとのコラボと、ゴールデンウィーク中の晴天の日という好条件に恵まれ、これまでにない賑わいをみせ、苦節15年にして初めて「大成功」と宣言できる催しとなったような気がします。これまで他人任せにしてきた出演者のブッキングを、すべて自分でやってみたこともよい緊張感になりました。爆音系のバンドも呼んできたので、会場に隣接する介護施設で具合が悪くなる人が出たらどうしよう、なんて(笑)。

zikida.jpg

でも、お陰様で音に対する苦情や大きなトラブルもなく、無事終了することができました。さすが地元の人々は祭りに寛容だなあと感じます。有り難いことです。

日本の野外音楽フェス。わがフェスのような千人足らずの小さなものから十数万人規模の巨大フェスまで、各地でたくさん開催され、ここ10数年ほどは「野外フェス・ブーム」らしいですね。ムカシは野外フェスといえば、混乱を極めた災害被災地みたいになったことがよくあったようですが、近年は文化?として成熟したというか、客も主催側も、野外で音楽を享受できる心構えと準備体制が確立されているようで結構なことす。


さて、日本の野外フェスのルーツとされているのが、全日本フォークジャンボリー。1969年から1971年までの夏3回にわたって、岐阜県現中津川市で行われました。その記録がいわゆるメジャーからリリースされたのは最終の3回目からだったので、私を含めた多くの人々がこの催しのことを認知したのは1971年以降のことだったと思われます。

フォークジャンボリー表

ジャンボリー裏


掲載のジャケットは、キングレコードから発売された、その第三回フォークジャンボリーのライブ盤。写真から当時の被災地的雰囲気が何となく漂ってきます。私は当時、2枚組で高価にもかかわらず購入し、かなり聴き込んでいたようで、このアルバムからコピーした曲を数曲40年経ったいまでも歌っているほどです。しかし、それほど愛聴したこのアルバムを私はほどなく手放してしまいます。

二十歳のとき、横浜から東京へ流れ着いて、ようやく就けた安定した職(バイトですが、それまでの日雇いよりは安定していたという程度)が、後にそこの学生になるH大学の食堂でした。バイト仲間は、ほとんど都内の大学生で、私はこの仲間とともに、大学闘争終焉期にあって様々な活動を経験することになるのですが、そのことについてはまたの機会に。

そのバイト仲間の中に、栃木訛りの強い朴訥なM君という青年がいました。彼は、高卒後板前の修業をしながら百万円(今の貨幣価値だと五百万円くらいか)貯金したのですが、あるとき虚しくなって、それを数ヶ月でぜんぶ使ってしまったそうです。純朴な青年の価値観までもが揺すぶられるそんな時代だったのよ。そのエピソードが気に入ったせいかどうか、M君と気があって友達になりました。

あれは何線だったか、線路沿いの彼のアパートを訪ねると、とても可愛い妹さんが同居していたのですね。話していると、彼女はフォークジャンボリーのレコードをとても聴きたいと思っていたということで、私は舞い上がってそれを差し上げてしまったのです、はい。ものをあげることでしか他人の関心を引けない奴っていますよねえ。彼女に会ったのはたぶんそのとき一回だけだったはずです。かぐや姫の「妹」が流行る前だったと思いますが、友達の可愛い妹というのは、テッパンの存在ですよねえ。ということで、フェスといえば思い出す青春の一コマでした。少し強引ですが。

えーと、M君の妹にあげたはずのアルバムですが実は現在持っていて、なぜかというと、同じモノを最近ヤフオクで買ったからです。当時と同じアナログ盤で40年前のことを再確認したくて。いま聴きながらこれを書いているのですが、楽曲の良さとともに録音のクォリティにも驚かされます。後にベルウッド・レーベルを立ち上げることになるプロデューサーが、キングの録音スタッフを連れてゲリラ的に録音したようですが、権利関係も含め現在の常識からすると、よく出せたモノだなあ、と思える奇跡のようなアルバムですね。

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それはスポットライトではなくキャロルの瞳で輝いていたものなのか

Category : 1970年代/音楽
ずいぶんブログを更新していませんでした。4月は1本も書いてないモンなあ。

さて先日、友人からボビー“ブルー”ブランドのアルバムを戴きました。
おすすめナンバーのひとつが“It's Not The Spotlight”というから、こりゃあ文字通り聞き捨てならん、ということで早速聴いてみました。

ボビー・ブルー・ブランド

なんで聞き捨てならんかというと、この曲は私の古くからのフェバリット・ソングでして、30数年前にカセット・レコーダーでピンポン録音した私の一人多重録音演奏テープが今も手元に残っております。そのテープは、聴くのが怖いシロモノでして、懐かしさに負けてつい聴いてしまったりすると、しばらく落ち込み、以後10年くらいは聴きたくなくなります。んなもんで、録音したとき以来、人前で時々演奏するようになった現在でも、この曲をやったことはありませんが。

ボビー・ブランドで改めて聴いてみて、やはりものすごくエエ曲やと再認識し、あまり気にしていなかったこの曲の来歴なぞをたどってみる気になりました。

この曲を最初に聴いたのは70年代後半、浅川マキによる日本語バージョン「それはスポットライトではない」。以前に触れたように、彼女は大のロッド・スチュアート・ファンでしたので、ロッドのアルバム『アトランティック・クロッシング』でこの曲を知りカバーしたと思われます。


アトランティック・クロッシング

私がロッドを聴くようになったのは、浅川マキが歌う「ガソリン・アレイ」や「オールド・レインコート」の原曲を聴きたくなったからで、『アトランティック~』を買ったのも「それはスポットライトではない」の元歌「イッツ・ノット・ザ・スポットライト」が目的でした。ところがまあ、このアルバムがとんでもない名作で、特に〈スロウ・サイド〉と名付けられたB面は、1曲目の「もう話したくない」から「それはスポット~」を経てラストの「セイリング」まで怒濤の名曲・名演・名唱揃い。ハスキーボイスをぐっと押さえて入り徐々に解放してパワー全開へともっていくスケールの大きさ。音色も都会的な中にイギリス・トラッド・フォークのイナタイ哀感が混じり、男の色気といいましょうか、ゾクッとくるほどいいんですねえ。この前後数年間のロッドは名実ともにナンバーワン・ロックボーカリストでした。

閑話休題(それはさておき)、浅川マキ訳による日本語詞。

もしも光が またおいらに
あたるなら それをどんなに待っているさ
ずっと前のことだけれど その光に
気づいていたのだが 逃しただけさ
だけどふたたび いつの日にか 
あの光が おいらを照らすだろう

あの光 そいつは古びた街の 
ガス灯でもなく月明かりでもない
スポットライトでなく ろうそくの灯じゃない 
まして太陽の光じゃないさ
あの光そいつは あんたの目に 
いつか輝いていたものさ
またおいらいつか 感じるだろうか 
あんたは何を 知ってるだろうか

It's not the spotlight
It's not the candlelight
It's not the streetlight
But some old street of dream
It's ain't moonlight
Not even the sunlight
But I'v seen it shining in your eyes
And you know what I mean


この日本語詞が秀逸です。求める「その光」が真理や悟りなど崇高な精神性の比喩のようであり、厳粛ささえ感じられるような気がします。でも、原詞はもっと軽いノリで、「スポットライトみたいに輝く瞳の彼女と別れてしまった。でもまたいつかヨリをもどしてやるぜ」(超意訳!)みたいな未練節のようです。まあ、プレイボーイのロッドが歌うには、そっちのほうが似合ってますけど。日本語詞はそんな下世話な感情が昇華されてて断然いいと思いますよねえ。

浅川マキ訳の工夫をひとつ。掲載の歌詞は、日本語部分がヴァース(いわゆるAメロ)で、英語部分がコーラス(いわゆるサビ)です。しかしよく見ると、ヴァースの後半部分がコーラス部分の訳になっています。「サビは英語のまま歌いたい(正確には、つのだひろに歌わせたい)けど、それじゃ肝心なところの意味が日本人に伝わらない。そうだ、サビの歌詞をAメロに入れとけば、サビが英語でも意味的にはコンプリートじゃん」とマキさんは閃いたのでした、たぶん。

浅川マキ・バージョンは、下北沢のジャニスこと(古いキャッチ!)金子マリも歌っています(どちらかというとマキよりマリ版のほうが有名かも)。YouTubeを探せばアマチュアによるカバーもけっこうあります。

このような流れから、この曲のオリジナルはロッドかなと漠然と思っていたのですが、件の友人は、ロッドはボビー・ブランドのをカバーしたんじゃないか、と言い置いていったのでした。で、俄然気になりだして、調べてみることにしたのでした。

「イッツ・ノット・ザ・スポットライト」は作詞ジェリー・ゴフィン、作曲バリー・ゴールドバーグ。ゴフィンは60年代前半に、伝説の<ブリル・ビルディング>で、当時の妻キャロル・キングとのコンビでヒット曲を連発(「ウィル・ユー・ラブ・ミー・ツモロウ」や「ロコモーション」など)した有名作詞家。しかし「~スポットライト」を書いたと思われる70年代前半には、別れた妻のキャロル・キングがアルバム『つづれおり』のモンスター・ヒットで大スターとなったのに対し、ゴフィンはほとんど忘れ去られた存在となっていたということです。という境遇から推察すれば<その光>を放っていたのは、キャロルという可能性もありですねえ。
作曲者のゴールドバーグは不勉強な私には初めて聞く名前でした。マイク・ブルームフィールドと共にエレクトリック・フラッグやKGBのメンバーとして活動していた人だそうです。

ゴフィンもゴールドバーグも、それぞれこの曲を自分で歌って録音しています。ボビー・ブランドもほぼ同時期にアルバムに入れていますが、ネットで調べても、最初にレコーディングしたのが誰だったのか、はっきりしません。ゴールドバーグのアルバムは、スワンプ・ミュージックの聖地マッスルショールズ・サウンド・スタジオで録音されています。その翌年くらいにロッドがここで『アトランティック・クロッシング』を録音していますから、その際スタジオ関係者からこの曲を教えられたんじゃないか、と推測される方もいるようです。

決してヒット曲ではないけれど、さまざまな実力派ミュージシャンに愛され歌い継がれてきた典型的な〈隠れ名曲〉が「それはスポットライトではない(It's Not The Spotlight)」ということですね。

うーん、オレも三十数年ぶりに、この曲を歌いたくなってきたぞ。

私の歌でこの曲を初めて聴くことになったりする方は、不運としかいいようがありませんけど。いや曲が不運なのか。






浅川マキのダークネスは無理せず頑固に生きた証なのだ

Category : 1970年代/音楽
一カ月前に還暦となりました。

そのとたんに、TSUTAYAでCD借りたらシニア割引されるし、シネコンの映画チケットもシニア料金ボタンを押すよう教えられるし、で軽いショックを受けています。年金相談会の案内もきて、つまり社会的に「老人」と宣告されたわけで、これってやはりあまり気分の良いものではアリマセン。

そのことへの反発、精神的なアンチ・エイジングのようなつもりなのか、このところやたら新しいこと始めたり、興味の対象を広げたりしているような気がします。ケータイをスマホに替えて、ツイッターやフェイスブック始めたりムービー作ったりMIDIいじったり、つい最近までなんとなく面倒で遠ざけていたことに取り組むようになりました。音楽も60-70年代だけでなく、最近の人のも聞きたくなって『レコード・コレクターズ』だけじゃなく『ミュージック・マガジン』も読むようになった。新しい映画のこと知りたくて初めて『キネ旬』買ったし。

自慢? そう、オレは年寄りじゃない!とアピールしたいがです、周りや自分に向かって、たぶん。これは一時的な「還暦ブルー」の裏返しなのでしょうかねえ。

こんなことではいけない。このブログのテーマは「人は時代の虜囚、感性は若者の時に鎖に繋がれ、それを断ち切ることは一生できない。ゆえに常に後ろ向きに何度も何度もあの時代に立ち返り自分の成り立ちを検証するんじゃいボケ」というものですから、軽々しく「いま」に擦り寄ってはいけないのです。

というわけで迷いを振り切って、ここは「時代に合わせて呼吸するつもりはない」と言い切って、60年代末から自分のスタイルを貫き通し2010年に亡くなった浅川マキに登場してもらわねばなるまいぜよ。


浅川マキ/浅川マキの世界

浅川マキの世界  1970



浅川マキ/セカンド

MAKI Ⅱ  1971
 


浅川マキ/ライブ

MAKI LIVE 1972



浅川マキ/blue spirit blues

ブルー・スピリット・ブルース  1972



浅川マキ/裏窓

裏窓  1974



浅川マキ/灯ともし頃

灯ともし頃  1976



浅川マキ/流れを渡る

流れを渡る  1977



浅川マキ/ライブ夜

浅川マキライブ 夜  1978



浅川マキ/寂しい日々

寂しい日々  1978




浅川マキ1970年代のアルバムを発表順に並べてみました(6thのみ欠落)。ファーストはCDですが、それ以外はアナログ盤ジャケットを撮影したものです。

どうです!! 味があるでしょう? 暗い背景に黒ずくめの衣装で統一されたジャケットデザイン。黒にこだわった彼女の美意識は終生変わることがありませんでした。90年代から編纂されだしたベストアルバムシリーズも『ダークネス』というタイトルですから。

「黒」と並んで浅川マキを象徴するキーワードといえば「地下」でしょうか。60年代後半には「カウンターカルチャー」が世界的に大きな潮流になりました。支配的な既成の文化(オーバーグラウンドのメインカルチャー)を否定し、対抗する若者文化が大きな運動となったのでした。日本では「アングラ(アンダーグラウンド)」と呼ばれ、特に音楽や演劇に新しい勢力として台頭していきました。政治的な対抗勢力「新左翼」とも連動して、地域的には東京新宿を中心にして、なにやら熱いものがうねっていましたねえ。

60年代アングラ演劇の旗手、寺山修司にその個性を見いだされて本格的な歌手デビューをしたのが浅川マキでした。アングラの特徴のひとつに暗く土俗的、情念的なるものがあげられます。60年代の猛烈な高度成長がもたらしたひずみとして逆照射された暗部を、アングラ演劇では好んで取り上げました。浅川マキはデビューアルバムから既にこういった要素をたっぷり含んだ世界を確立していました。日本の演歌的な情念とブルースやロック、ゴスペル、ジャズの要素を融合した独特な「浅川マキ節」を創り上げ、信頼するミュージシャンと共に、その後40年間ブレることなく歌い続けました。

とはいっても、暗く重い歌ばかりではなく、70年代の彼女には、少年(的なるもの)に対する含羞や、稀代のプレイボーイ・ロックシンガーのロッド・スチュワートがお気に入りで彼の曲を度々カバーするなど、若い女性らしい明るい一面もあり、その意外性もまた魅力となっていました。

彼女を支えた人達としては、山下洋輔、坂田明、つのだひろ、向井滋春、稲葉国光など当時の一線級ジャズメン、戦前の伝説的トランペッター南里文雄、若き日の坂本龍一、近藤俊則(後の等則)、レコーディング・エンジニアの吉野金次(上掲のアルバムのほとんどを録音)、写真家の田村仁(上掲のジャケット写真ほとんどを撮影)など、錚々たるメンバーがあげられます。私は、大学生の時に浅川マキに抜擢されたという、萩原信義の力強いヘタウマ?ギターが大好きでした。

浅川マキのアルバムは、よく売れて1万枚、だいたい数千枚しか売れなかったそうです。ふつうならメジャーレーベルからは契約を打ち切られる売れ行きなのですが、彼女は死ぬまで東芝EMIの所属でした。いかに彼女の存在が貴重であったかの証でしょう。また、彼女はCDの音質に不信感を抱いていたそうで、上掲のアルバムのほとんどは彼女の意向により、CD化されることなく廃盤となっていました。それが彼女の死後どっとCDで再発売されて聴けるようになったのですから、ファンとしては複雑な気持ちですね。

彼女が作った曲にも好きな曲はもちろんたくさんありますが、なにか1曲選べと言われたら、上記ロッド・スチュワートのカバー『ガソリン・アレイ』ですかねえ。憂歌団の『シカゴ・バウンド』と同じような内容で、帰郷ソングというのでしょうか、都会の暮らしがうまくいかなくて田舎に帰ろと思う歌ですね。彼女が残した曲の中でいちばんハードでロックっぽいナンバーです。

  ♪何もかもがうまくいかなくてさ 毎日毎日が
   これじゃおいらが生きてることさえ無駄な気がしてきた
   帰ろう おいらが生まれたあのガソリンアレイへ
   帰ろう 細い路地のあのガソリンアレイへ
                        (日本語詩/浅川マキ)


私もかつて同じように、都会の暮らしに挫折して田舎に戻ってきた身ですから、この歌への愛着も一入なんです。
まあ、彼女自身は一貫して大都会に住み続け、その孤独を歌に刻み続けてきたのですが。

今の世は、皆自分の中の暗いものを隠そうとします。そうして無理をしてあるとき心が折れる。彼女の歌を聴いていると、今の人はもっと暗さを飛散させてもいいじゃないか、なんて還暦ブルーのオジイは思いますよ。


眠くなってきたので、尻切れトンボ的に強引に落ちないオチをつけてしまいました。お休みなさい。




つい盗みたくなる、それがライ・クーダー。

Category : 1970年代/音楽
明けましておめでとうございます。

本年も、ぽつりぽつりと、独善的な文章を書き連ねていきたいと思います。徒然な折りにでもお読みくださいませ。



RY COODER_pull up some dust and sit down


毎年、元旦ジョギングしながらウォークマンで聴くBGMが音楽聴き初め。今年初の音楽はライ・クーダーの最新アルバム『プル・アップ・サム・ダスト・アンド・シット・ダウン』。昨年秋に買ったまま、聴かずに放ってあったもの。レンタルじゃないからいつでも聴けるし、みたいなことで何となく後回しにしていましたが、昨年末ストーンズの初期名作3枚を聴いていて(前回ブログ)、そうだライ・クーダー聴かなくちゃ、と思い出したのです。

なんでストーンズでライ・クーダーを思い出すのかは後述するとして、このアルバムは良い!五つ星です。ど真ん中ストライクです。1曲目から懐かしいルーツ・ミュージック・テイスト濃いめのライ・クーダー節全開で、ジョギングの足の運びも軽やかになる楽しさです。ライ・クーダー個人名義の新作アルバムを聴くのは実に三十数年ぶりなので、なんか小難しくなってたらイヤだなあと心配していたのですが、それはまったくの杞憂で、ムカシと変わらず、とぼけていて暖かく懐かしい伝統に根差した芯の太い音を聴かせてくれるのでした。

オレは日本人なのに、何でアメリカの古い音楽がこんなに心に染み入るがやろ、日本の演歌や民謡にはあまり心を動かされんのに、そうじゃ、前世のオレは戦前のアメリカのシェア・クロッパーか白人炭坑夫だったに違いない、なんて思うほど、私には古いブルースやカントリー音楽がしっくりときます。ジャズやシティ・ブルースよりは、アパラチア系白人伝承音楽や南部カントリーブルースに惹かれるところが、前世はボンビー(古い言い方!)な田舎の下層米国人だったと想像する所以。

私とは比較になりませんが、ライ・クーダーは、そんな古い音楽を大好きになった人で、デビュー作からずっと、不況時代とかの古いフォークソングやブルースを発掘して、独特の解釈、アレンジで現代に蘇らせ続けてきました。当初はアメリカ音楽が中心でしたが、その後、メキシコやハワイ、キューバ、さらには沖縄音楽と、そのルーツ志向は世界的広がりを見せるようになり、最新作では、それらを融合したオリジナル曲で独特のライ・クーダー・ワールドを構築しています。それぞれの地域・時代の音楽への愛にあふれた真摯な音づくりが、高い評価を得ています。

そんな彼とよく引比較されるのが、ポール・サイモン。彼も早くから南米やカリブ海そしてアフリカの伝承音楽とそのリズムに目を向けてきた人ですが、彼には、自分の利益ために世界の貴重な音楽遺産を食い物にしている、というような悪い評価がついてまわります。かつては、大国による文化侵略になぞらえられたりもしたようです。私自身はポール・サイモンかなり好きです。セカンド・ソロアルバム『ひとりごと』に入っているニューオリンズへのオマージュ『夢のマルディグラ』などは、いつ聴いてもゾクゾクするくらいいい曲です。けど、そんな評判に足を引っ張られますね。

ポール・サイモンのことはまたの機会においといて、ライ・クーダーでした。

ライクーダー登場

ライクーダー登場ウラ

1970年のファースト・アルバム。エレクトリック&アコースティック・スライド・ギター、フィンガー・ピッキング、マンドリンと、現在聴くことのできる彼のギタースタイルが、この時既に完成形で出揃っています。伝説的ラグタイム・ギタリストのブラインド・ブレイクの名も彼のカバーで初めて知りました。そして、今ではよく知られていますが、当時の日本のロック愛好家の多くはこのアルバムの解説で初めて知ったんじゃないかと思われる面白いエピソード。

それは、ローリング・ストーンズの超名曲『ホンキイ・トンク・ウィメン』の、あの有名なイントロギター・フレーズ、いつ聴いてもシビレますが、あれはライ・クーダーのフレーズを、そっくりそのままキース・リチャード(現リチャーズ)が盗んものだったというお話。

ホンキイ・シングル盤

1969年、ライはストーンズのアルバム『レット・イット・ブリード』のレコーディングに招かれます。スタジオに行ってみると、アレンジ等の準備はほとんどできていず、ストーンズのメンバーはただダラダラと過ごしていたそうです。ライは求めに応じて、様々なギターフレーズを弾いてみせ、それが録音されました。その中に、件の『ホンキイ~』のセッションがあり、そこで彼はあの名高いフレーズを弾きます。ところが曲が完成してみると、ライではなくキースがそのフレーズをそのまま弾いており、ギタリストであるライの名前はどこにも出てこず、わずかに他の曲のマンドリン奏者としてクレジットされただけでした。完全にフレーズを盗まれたライは怒り、訴訟を起こそうとしたほどだったようです。

ライのファーストアルバムの時点では、この件は解決していなかったとみえ、解説に彼の怒りの暴露発言が載っているのですが、その後1972年に、ストーンズ側がライの参加したセッションをアルバム『ジャミング・ウィズ・エドワード』として発売し、印税をライに支払うことで、決着したようです。

まあ、キースとしては、フレーズが出てこず煮詰まっているところへ、聴いたことのないとびきりユニークなフレーズをライが弾いたモンだから、思わず飛びついてしまったのでしょう。オレは天下のキースだけど、奴は無名の若造ギタリストだから、何か言ってきても、オレがフレーズ盗んだなんて誰も信じまい、と思ったのかもしれません。

しかし、論より証拠。ライのファーストアルバムを聴くと、そこには明らかにライの血肉となっているのが間違いないギターフレーズがてんこ盛りで、それらは『ホンキイ・トンク・ウィメン』の独特のノリを感じさせるものでした。そりゃ、ライの言っていることが真実だと、誰もが納得せざるを得ません。

ということで、デビュー前から、キースに盗まれるほどの腕を持っていたギタリスト、ライ・クーダー。その後、味わい深いアルバムを次々と創り、90年代にキューバのミュージシャンを発掘し共演した『ブエナビスタ・ソシアル・クラブ』で、世界的に有名な存在となります。しかし、ビッグ・スターになっても変わることなくお気に入りのマイナーな音楽をお気に入りのミュージシャンとともに演奏するという地味なスタイルを続けているのが、彼の素晴らしいところですねえ。

私は数年前、地元では彼の知名度があまり高くないことをいいことに、彼の沖縄ソング『ゴーイング・バック・ツー・オキナワ』に日本語詞をつけ、『すさきへ帰ろう』という題名で、自分のオリジナル曲のように歌っていたことを告白したところで、本日のオチとさせていただきます。失礼しましたー。










芥川と柳ジョージが坂道で

Category : 1970年代/音楽
音楽や小説が心の中でシーンと結びついていて、あるシーンに出会うとそれらが決まって思い出されるってことがあります。

昨日は、久しぶりの休日。先週末はB-1グランプリ出展で姫路へ遠征したりして、けっこー老骨に鞭打ったんで、ゆっくり骨休めでもすればいいものを、あんまりいいお天気だったので、太平洋の水平線が望めるYスカイラインにジョギングに出かけました。

休みの日の朝は10kmくらいは走るようにしているのですが、現在の職場では勤務シフトで休みが平日になることが多く、みんなが出勤・登校している時間帯に、のんびりジョギングするのは何か後ろめたいというか、知り合いに「きょうは休み?」なんて訊かれたりするのもメンドクサイから、なるべく人々が通らない農道や裏道を選んで走っています。それでもちょくちょく出合ってしまうので、まず知り合いに遭遇することのない必殺コースとして最近重宝するようになったのが、Yスカイラインです。

ここは、80年代の人気クルマ漫画『シャコタンブギ』で公道バトルの舞台として登場する道路で、連載当時から四半世紀を経た現在でも「聖地」として訪れるファンがいるようです。でも生活道路ではなく観光地化に失敗した地域を通る観光道路のYスカイラインにクルマの影はまばらです(ここまで書くのならイニシャルじゃなくちゃんと名前を出せよ、と自分にツッコミたくなりますが、たとえバレバレでも自分の周辺は地名も含め匿名でやるというというのを原則にしてますので)。

自宅からクルマで15分くらい走り、スカイライン内の武市半平太像が建っている広場まで行きます。昨年の『龍馬伝』ブームの時でさえ、蚊帳の外状態で一人取り残され、訪れる人もわずかだった武市半平太像。昨日も着いたとき広場には誰一人いません。時折トイレ休憩のクルマか、コーナーを攻めに来るバイク乗りが立ち寄るくらい。ここにクルマを置いて、6kmほど東に走り折り返してくるのがジョギングコースです。折り返し場所のすぐ手前には、朝青龍、琴奨菊、横峯さくら等の出身校として有名なM高校への入口があります。でもやっぱりクルマもめったに通りません。

リアス式海岸の海岸線に沿った曲がりくねった山道で、平坦な部分がほとんどなく、道はしつこいくらいアップダウンを繰り返します。これがキツイ。行きに長い坂を下っていると「帰りはここを登らないかんのか」と思って気が重くなったりします。

ここからやっと本題。

そんなときによく思い出すのが、芥川龍之介の『トロッコ』という短編です。中学1年生の国語教科書で読んだだけで45年以上読み返したことはなかったのですが、主人公の少年がトロッコを押していて、登り坂があるとその分だけ下り坂があるんだと思ったりする部分を、坂道だらけのYスカイランを走るようになって、頻繁に思い出すようになりました。


蜘蛛の糸


細部はほとんど覚えていなかったので読み返してみようと、先日ブックオフでついで買いしてきました。昭和以前の名作古典といわれる本を買ったのは十何年ぶりでしょうか。
少年の頃観た映画や読んだ小説を、大人になってから鑑賞しなおすと「えっ、こんな話やったが」と、ずっと抱いてきた印象との違いにちょっと戸惑うことがあります。
この『トロッコ』も、トロッコを夢中で押しているうちに思いがけなく遠いところまで来てしまい、不安に駆られながら家路を急ぐというのがストーリーではありますが、少年期の淡い思い出を描いたそれなりに明るい雰囲気の作品というイメージをずっと持ち続けてきました。
ところが、45年ぶりに読んでみると、かなり暗めの作品でした。大人になった主人公が、少年の日に体験したあの恐怖と不安の気持ちと現在の境遇が同じように思えると述懐するのですが、そこには後年自死を選ぶ芥川の鬱屈がすでに意識を覆い始めているように感じられます。そんなこと今更持ち出すまでもない文学史の常識なのでしょうが、私には意外でした。まあ、「坂」しか覚えてなかった底の浅い接し方なもんで当然かも。


Yスカイラインで思い出すもうひとつの定番は、柳ジョージ&レイニーウッドの『青い目のステラ1962年夏』。

柳ジョージ30th


ジョギングをしていると道路のすぐ脇から100m以上の断崖になっている箇所が時折現れ、そこからは太平洋の眺望が広がります。水平線までずっと見渡せて、きらきら陽光を反射する海にぽつりぽつり船影が見えると、坂道で苦しんでいても、

 ♪沖を通る貨物船眺め テネシーワルツ歌おう
  うまいもんさ あんたに教わった
  ちょっといかしたステップ

なんてフレーズをヒイハア言いながらくちずさんでしまいますねえ。
この曲と『フェンスの向こうのアメリカ』の2曲は、本牧米軍ハウス(横浜海兵住宅地区)近辺で少年期を過ごした男の郷愁をテーマにした私小説的な内容の歌詞が秀逸で、十代最後の二年間を横浜で暮らした私自身の思い出と相俟って、もうたまらなく好きな曲です。
ほかにも、『さらばミシシッピー』『酔って候』『コインランドリー・ブルース』など、柳ジョージ&レイニーウッドには私のカラオケ愛唱曲が多いですね。

残念ながら、柳ジョージ氏は本年10月10日に永眠してしまいました。死因は過度の飲酒が原因とみられる腎不全。んー、ブルースな死に方やなあ。


それと、あと一カ月ちょっとで大掃除の時期がやってきますが、寒い季節に掃除をすると、たぶん、幸田文の『あとみよそわか』という随筆を思い出して、無性に読みたくなったりするはずです。

それでどうしたといわれても困りますけど、そんなふうに音楽や文章を思い出すのは楽しいんですよねえ。


烙印を消せ

Category : 1970年代/音楽
更新をサボっていて、久しぶりに自分のブログを覗いたら、トップページにスポンサーサイトが表示されだしていました。FC2では、1ヶ月以上更新しないとこうなるんですね。休眠ブログの烙印みたいで恥ずかしいような腹立たしいような。

なんやかんやと忙しくて、頭の中がトッ散らかってしまい、書くことができんようになっていました。なんせ脳内メモリーが64MBくらいしかありませんから、いろんなことを並行的に処理できないのです。

なんで忙しかったかというと、私たちが主催している音楽イベント“SU.SU.MU.FES”があったからです。

これまでは実行委員長として、まあ半ばお飾り的に居ればよかったところもあったのですが、今年は裏方の事務局に回ったため、仕事量が少し増えてしまいました。それを開催わずか1ヶ月前から準備に取り掛かるという杜撰さだったのですから、状況は推して知るべしでしょう。
いやあ、よく開催できたもんだ。スタッフの皆さんのおかげです。


susumu2011_1.jpg

フェス本番中、正午頃のようす。


ウッドストックのジョンセバスチャン

こちらは、前回触れたジョン・セバスチャン出演時のウッドストック・フェス。同じ構図の写真なので載せてみました。

ちょっと負けてる?


実は、今回はこのウッドストック・フェスや全日本フォークジャンボリーなど、1970年前後の野外フェスについて書き始めたのですが、けっこう書き進んだところで操作を誤り、データを消してしまいました。久しぶりのブログでリキミすぎたのかなあ。今日のところは書き直す気力がないので、とりあえず休眠サイトの烙印を消すために、このままアップします。






ウェルカム・バックと自分に言って寒し秋雨の夜(字余り)

Category : 1970年代/音楽
昨日は、永らく実行委員をやっている音楽祭の10周年記念祭でした。ここ数年は、いろいろなことがあって、あまり積極的に関われませんでした。それが、まあ、こんなブログが書けるようなところまで気力も回復したので、今年はカムバックしようと思ったのです。ところが、戻ってみると……、

居場所がない……。

すっかり、世代交代が進んでいたのですね。

私より年長の創設時からのメンバーは、ほとんど顔を出すことがなくなっていて、私が最年長。しかも、いちばん歳の近い人たちとでも10歳離れている、ダントツの高齢者になっていて、あからさまではないまでも、よっぽど鈍感でない限り感受できる程度にはハッキリと、カタタキ的なことも言われたような……。

一昨晩の前夜祭でのこと。

本部テントには何となく居づらくて、ビールを買いに屋台のほうに歩いていくと、端っこのテントから声をかけられ、フラフラッと吸い寄せられてゆくと、そこにはM氏、O氏、I氏などの長老メンバーやブルースハーピストS氏などがタムロってました。ああ、やっぱりこの人たちも居づらいんだ、と思うと同時に、そこにはホッとした居心地の良さが……。

ああ、長老たちがこっち側へおいでと手招きしている。

久しぶりにフル参加した音楽祭は、まあ楽しかったけど、少しほろ苦くもありました。

そろそろ、あっち側へ行ったほうがいいのかなあ。


そんな気分の今日のテーマ曲は、ジョン・セバスチャンの『ウェルカム・バック』。
「ようこそお帰り」と、せめて自分に言ってやろう、なんて思いまして。


Jセバスチャン/ウェルカムバック

Jセバスチャン/ウェルカムバック裏


Welcome back
Your dreams were your ticket out
Welcome back
To that same old place that you laughed about
Well the names have all changed since you hung around
But those dreams have remained and they've turned around
Who'd have thought they'd lead ya
Back here where we need ya
Yeah, we tease him a lot 'cause we got him on the spot
Welcome back

お帰り、君の夢は期限切れの切符のようだったね
君が笑いものにしていた、昔と同じ場所へよく戻ってきたね
そうだね、君がいなくなってから、
生徒の名前はすべて変わってしまったけど
でも、君の夢はやり残されたままで、夢の種類が変わっちまったのさ
夢が君をここに呼び戻したなんて、誰も想像しなかったよ
そう、俺たちは、たまに会えば目一杯からかってしまうんだ
おかえり、よく戻ってきたね
                  (訳詩はブログ『名曲洋楽訳詩隊』より拝借)


ジョン・セバスチャンは1965~1967年に『魔法を信じるかい』、『デイドリーム』、『心に決めたかい』、『サマー・イン・ザ・シティー』『ナッシュビル・キャッツ』などのヒット曲を放ったアメリカのバンド『ラヴィン・スプーンフル』の元リーダー。ルーツミュージックのテイストとロックを融合させたグッドタイム・ミュージックと呼ばれたハートウォーミングな音楽性で人気を博し、私がとても好きなバンドの一つでした。「スプーン一杯の幸せ」というバンド名からして素敵じゃありませんか。

ソロに転向(自分が作ったバンドを出ていきました)直後の1968年、あの『ウッドストック・フェス』に出演し、その映画が公開されたことで、私は初めて動くジョン・セバスチャンを見ることができました。彼が出演することになった経緯はよく知られていますね。

フェスの前から、予想を超えた大観衆がウッドストックを目指したため周辺は交通マヒ状態に陥り、開演時間を過ぎても出演予定者が会場に到着できない事態が起こりました。そこで、観客として早めに到着してハッパなんかを決めてくつろいでいたジョンが、穴埋めのため出演することになります。しかし、急なことで、ラリッたままステージに上がったものですから、『ヤンガー・ゼネレーション』を歌っている途中、歌詞が出てこなくなってしまいます。「オー、忘れちまったぜ」とお手上げ状態の仕草をするジョンが面白い。

その後ロックの表舞台からは姿を消していましたが、フェスから8年後の1976年に突然『ウェルカム・バック』が大ヒットし、ソングタイトルどおりジョンもカムバックします。ちなみに、この曲は不良少年だらけの高校に戻ってきた教師を主人公にした、日本でもよくあるパターンの学園ものテレビ・ドラマの主題歌だそうです。

しかし、『ウェルカム・バック』以降、ジョンはまた隠遁状態に入ります。時折、どっかのバンドの一員として来日したりしてるのかな。ブルースハープの教則本なんかも出していて、私はそれを買って、あの優しい声で教えてくれるセカンド・ポジションを練習してるさ。ロックの殿堂入りも果たしているかつての大スターがハモニカの先生をやってくれるなんて、いかにも気さくな感じでいいじゃありませんかい。

というわけで、ジョン・セバスチャンに癒される本日の私。まんまで、オチはありません。
泊りがけのお城下遠征で少し疲れました。もう眠ろう。



夏の休日の小確幸〈(c)村上春樹〉はビールを飲みながら聴くケニーの星屑ギター

Category : 1970年代/音楽
いよいよ8月になりました。今年は台風のせいか、俗に言う「梅雨明け十日」(梅雨明けしてしばらくは太平洋高気圧が張り出してカラッした晴天が続く)の好天がなく、湿気の多いどんよりした日が続きますね。

こんなときは、音楽もギンギンの暑苦しいロックより、ライトな優しい音楽を聴きたくなります。歳をとると耳も夏バテするのですよ。ほんの先日、フジ・ロック・フェスにゆく娘をバスターミナルまで送る車中、ジャック・ジョンソンをかけたら、1曲目が流れ始めたとたん、二人で「涼しい~」と輪唱してしまいました。サーフィンを終えた夜の浜辺で、仲間と語らいながら音楽を奏でている風景が浮かんできて、夜風の感触まで伝わってきそうで、ほんとジャック・ジョンソンの音楽は涼しいんですよねー。

でも、本日紹介するのは、ジャックではなくケニー。
ケニーこと井上ケン一のレアな名盤『レイジー・ベイビー・ケニー』(1976年)です。

井上ケン一/レイジーベイビーケニー表

井上ケン一/レイジーベイビーケニー裏jpg


夏の休日の昼間、戸外の日陰に椅子と小さなテーブルを持ち出して、柿の種をポリポリ囓ってよく冷えた缶ビールを飲みながら、杉浦日向子の江戸ものエッセイなんかを読んで過ごすとき、ぴったり合うのがこのアルバムなんですね。実際、ここ数年間、8月のうちの1日は、このシチュエーション通りのひとときを過ごすことにしてます。読む本は毎年違いますが、流す音楽は必ず、コレです。まあ極私的な年中行事ですね。

こう書くと、なんだか広い庭のある高級住宅地に住んでるみたいですが、実際は庭なんかなくて、人通りの多い道路に面した自宅軒下の自転車置き場でビール(風飲料)を飲むだけなんです。通りかかる人に、けっこうジロジロ見られるけど、気にシナイ。ひょっとして、こんな私を目撃したことのある方もおられるかもしれませんが、そういうことですので(どういうことだ)。

井上ケン一は、1970年代に活躍したロック・バンド「久保田麻琴と夕焼け楽団」のリード・ギター担当だった人です。夕焼け楽団は、細野晴臣らと並んで、沖縄やハワイ、ニューオリンズなどのリズムを取り入れた、後に言うワールドミュージック指向の音楽を日本で演り始めた先駆け的存在で、日本ロック史上に大きな足跡を残すバンドですが、一般的な知名度はそれほど高くなく、残念ながら音楽通好みのマニアックなバンドという位置付けのようです。

で、1970年代半ばに発表されたこのアルバム、いわゆるバナナベルトの音楽の香りがするアルバムが多い夕焼け楽団の、音創りの中核をなすギタリストが、ハワイで録音したソロ・アルバムですから、もう100%純正の南国ュージックなわけですね。

「レディース・アンド・ジェントルメン、ケニーガ、イマ、アソビヨルノヨ」という外人さんのたどたどしい日本語による紹介で、曲がスタートします。ハナから横道へそれますが、この「~ノヨ」という語尾は、ハワイ方言みたいなもので、明治時代に行われた大規模ハワイ移住では広島県、山口県など西日本出身者が圧倒的に多く、先祖の中国地方方言の名残がハワイの子孫に受け継がれているのだろうということです。

というわけで、脱力系イントロダクションを受けて始まるのは、まずインスト。ジャズの超スタンダード『A列車で行こう』のラグタイム・バージョン『A列車のラグ』。アコギでのブルージーなフィンガーピッキング演奏に、ホヤーンとした音色のフルートとトロンボーンのソロ。暑く気怠い夏の午後に、これが流れ始めると、もう、体がいっぺんにフニャーンとほどけてきて、それはそれは快感なんですよ。

ビートルズの『ハニー・パイ』のカバーの『ケンちゃんのハニー・パイ』は、原曲がかなりユルめなのに、それをまだ倍くらいユルめて「君が好きなのは~アップル・パイ? パンプキン・パイ?」なんて、ホンワカ歌っています。星の数ほどあるビートルズ・ソング・カバーのうち、最ユル・カバーは間違いなくコレでしょう。

ブルースの古典『心の悩み(トラブル・イン・マイ・マインド)』も演奏してますけど、マッタク悩んでいるように聞こえない!

オリジナルの『冷たい風』で「冷たい風が吹いてきて 俺の心を吹き抜ける」なんて歌うけど、ちっとも冷たそうじゃない! ぬくい南の風みたいに感じます。こんなに夏が似合う冬の歌はないだろうな。

こう書くと、なんか井上ケン一という人は、ノーテンキなだけのア○な人物みたいですが、けっしてそうではありません(会って話したことがないので断言はできませんが)。

多くの曲で聴かれるのが井上ケン一のシグネチャーというべき、フィンガー・スライドを多用した滑らかで伸びやかで煌びやかなフレージングをちりばめた、クリヤーながらユルく甘めの、これぞフェンダー・トーンという感じの、通称“星屑”ギター。これがもーー絶品!!

全編、脳細胞弛緩物質たっぷりの曲ばかり。これぞレイドバック(もはや死語ですが)の極致。


あー、早く今年の「ケニーの日」(暑い晴天の休日)がやって来ないかなー。




追記:フジ・ロック・フェスを聴きに行ってた娘が昨夜帰宅して、「モノスゴク楽しかったけど、モノスゴク疲れたー」と叫んでいました。それを聞いて、自分は「モノスゴク疲れる」ことはしょっちゅうあるけど、それに「モノスゴク楽しい」がくっついたことは、もう何年もないよなー、なんて思ってしまいました。

フィービ・スノウのこと

Category : 1970年代/音楽
先日の松本前復興担当相の辞任記者会見で、カズオ・イシグロと並んで唐突に名を挙げられたフィービ・スノウ。「誰?それ」という疑問と、「え、彼女亡くなってたの」という驚きとの2種類の反応で、ここ数日彼女の名がネット上を多く飛び交ったようです。私の反応はもちろん後者。

私は、いずれ自分でコピー(演奏)したい気に入りの曲を集めたCDを作っていて、それに「師匠」というタイトルを付け、車での移動中によく聴きます。この中にフィービ・スノウの『GOOD TIMES』が入っていますので、彼女は私にはお馴染みの師匠なのです。彼女が弾くこの曲のイントロのブルースのお手本のようなギターフレーズが、めっちゃカッコ良いんです(ファースト・アルバム『サンフランシスコ・ベイ・ブルース ブルースの妖精/フィービ・スノウ』に収録)。

フィービ・スノウ/ファースト


でも、最近の彼女の動向はまったく知りませんでした。バカタレ大臣の発言がきっかけで、その後の彼女をいろいろ知ることができたのですから、彼には感謝しなくてはならないかも。



   LA_times.jpg

このことで少し気がかりなことがあったのですが、日本のメディアのフィービ・スノウ死亡記事はあまり詳細ではなく、あちこち検索していてたどり着いたのが、『ロサンジェルス・タイムス』の追悼ページ。彼女の地元の、こっちで言ったら『高知新聞』みたいなとこの記事ですから詳しいことが書いてありそうだったので、乏しい英語力で2時間くらいかけて読みました。しかし、解らないところはトバし読みしましたので、だいたいのことしか知ることができませんでした、ハイ。

気がかりなことというのは、ヴァレリーという彼女の娘さんのこと。ヴァレリーは重度の脳障害を持って生まれ、フィービは娘さんの介護のこともあって、芸能界の表舞台から遠ざかっていたということです。フィービが亡くなって、ヴァレリーはどうなったんだろう、というのが気になったのですが、同紙には彼女もまた2007年に亡くなっていることが書かれていました。
介護は31年間に及び、娘さんの死の数ヵ月後に彼女は歌手活動を再開しますが、そのわずか2年後に脳出血で倒れてしまいます。悲しい話ですね。結果的には娘さんが先に死んだことは良かった、と言えばいいのか。重度の障害者の娘さんを残してだと、死んでも死に切れないでしょうから……。「ブラックホールのような」暮らしのなかで、お互いは「ベスト・フレンド」だったと彼女は語っていて、力の限り娘さんに寄り添い支えた、愛ある生き様が偲ばれます。

そして記事は、彼女が夫と離婚して、ジュリアという人の妹?として生きてきた、という1行で締めくくられています。

でも記事は暗い話ばかりではなく、若い頃の彼女は「女ジミ・ヘンドリックス」になりたくて、彼のコンサートに通いつめて奏法を学ぼうとしたが、結局スーパーギタリストにはなれそうもないと諦めた、などというニヤリとさせられるエピソードも載っています。



フィービ・スノウ/雪模様

1976年頃のある日、東京下北沢の喫茶店で、ビートルズ『ドント・レット・ミー・ダウン』の女性によるカバ・ーバージョンが流れてきました。静かなポップ・バラード調で始まったかと思うと、突然ド迫力のゴスペル・コーラス風に転じ、その次はレゲエ風に変わる、という遊び心のあるアレンジなんですが、これがまたえらくカッコよくて、店の人に誰が歌っているかを尋ねたところ、フィービ・スノウだよ、と答えてくれました。エエー!俺の大好きな『GOOD TIMES』のフィービが歌っていたのかということで、その後すぐこの曲が入ったアルバム『雪模様』を買いました。

フィービ・スノウ/雪模様ウラ

これはジャケットの裏。当時は気づかなかったというか、知る由もなかったのですが、彼女と一緒に写っているのが娘さんのヴァレリーだったんですね。写真の下に小さく「夫とヴァレリーと友人に捧げます」という献辞が載せられているのが、今となっては切ない。

そうだったのか……。35年の時を経て初めて知る彼女の人生は、胸に迫るものがあります。

今夜はフィービの2枚のアルバムをアナログで聴きながら、しんみりとお酒でも飲もうか。
いや思い切り楽しいひと時にしよう、この歌のように。

  ♪さあ、みんな、ここに集まって
   良き時代を楽しもうよ
   私たちの魂を和らげるのには
   ここがとにかく最高なのさ
   ここではなにもかもが素敵―― 一晩中
                     (『GOOD TIMES』山本安見訳)



憂歌団が似合う、というのはいいことなんだろうか

Category : 1970年代/音楽
昨日(6月25日)、地元で開催した音楽イベントに、バンドで出演しました。このイベントにこのバンドで出演するのは、6~7年ぶりくらいでしょうか、本当に久しぶりのことです。

susumunightのガッチョ


このバンド「G」は、憂歌団のコピーバンドで、本家憂歌団の解散直後の1998年に結成され、私は翌年メンバーになりました。

たしかその頃は、人生も後半になって思うに、何かやり残したことがあるような気がするゾ、何だろう、なんて自問していた時期で、思い当たったのが「ずっと日の当たらなかった人生。一度くらいは人前で演奏して注目を浴びてみたかった」ということでした。音楽の現場が好きで、自分たちで音楽イベントを運営したりしていましたが、専ら裏方スタッフとしてであり、楽器も弾けないに等しいし、すごいアガリ性だし、演奏者としてステージに立ったことはありませんでした。でも演奏するバンド連中を世話しながら、自分もアッチ側になれたらシヤワセやろなあ、と思っていたのですね。

そんな、なにか「悔いを残したままでは死ネナイ団塊世代老境生きがい探しドラマ」的な気分になっているとき、当時2人組だった「G」が、私たちの主催する音楽イベントに出演することになりました。そこで一大決心をして、一緒に演奏させてくれないかと頼んだのでした。

20代のころ、カセットデッキによる独り多重録音で憂歌団の曲を何曲か録音したことがあったので、練習すれば、それらの曲なら何とかやれるんじゃないか、思ったのですね。

選んだ曲は、ファーストアルバム『憂歌団』の1曲目「嫌んなった」と、セカンドアルバム『セコンドハンド』の1曲目「ハワイアンムード」でした。

憂歌団ファースト


憂歌団セコンドハンド


1975年の憂歌団の登場は、ほんと衝撃的でした。木村秀勝(後の充輝)の黒く重いけどコミカルな明るさも兼ね備えた圧倒的ボーカル。内田勘太郎のゴリゴリと荒削りなスライド・ギターやジャズっぽいコードワーク、一聴しただけで彼とわかる独特で超絶的なフレージング。花岡健治のずっしりとしたフォービートのウォーキングベース。島田和夫のドライブしたブラシさばき。もう、音ゴコロを鷲摑みされましたがな。

上記2枚のアルバムは、同時期に制作された、有山淳司&上田正樹の『ぼちぼちいこか』と並んで、私の中では不動で不滅の名盤です。捨て曲なしの全曲名曲なんです。
世間的には、ノヴェルティソング的な『おそうじオバチャン』が放送禁止となるなど少し話題を呼びましたが、その他の曲がまたいいんです。ブルースの世界への日本人的オマージュというか、まったくツイテない、モテない、カネない、サエない人たちについての歌ばかり。貧しい南部黒人の心境になりきりの沖てるお、尾関真による歌詞が冴えまくりです。

  ♪シカゴに来て 二年がたった
   だけどいい事ありゃしねエ
   メンフィスから汽車に乗って
   やって来たけれど
   他の奴らは うまいことやってるけど
   この俺だけが落ちぶれちゃった
   街のかたすみで 小さくなって
   ひとり暮らしてる
             (シカゴ・バウンド/尾関真)

  ♪こんな時にも あいつの事を思い出すなんて
   腹がへって 眠れねえのに 思い出すなんて
   俺の生涯 抱いた女は
   田舎に残した カカア一人
   たくわんみてえな 田舎の女
   カカア一人だけ
             (たくわん/沖てる夫)

んー、なんて浮かぶ瀬のない人生なんだ。もースゴク共感できますとも! 既に20歳代半ばでブルース的人生を歩み始めていた私は、憂歌団を聴いた途端、「これは俺のウタや」と思ったのでした。

それが、20数年後の憂歌団コピーバンド「G」につながるわけです。このバンドに参加したおかげで、メンバーを通して、あるいはライブの場で、様々な人と知り合い、世界を広げることができました。

でも、実はこのバンドで一つ引っ掛かっていることがあるのですね。それは私以外のメンバーが全員公務員だということなんです。バンドやるのにどんな仕事していようが勝手なんですが、憂歌団のブルースと公務員という安定した職業はあまり相性がよくないような気がしますヨ。手前味噌ながら、憂歌団の曲を私が歌うとブルージーで迫真力があると言われるがですよ、フフフ。そうであるとすれば、それはヒトエに、私の人生が(他のメンバーと比較して)ブルースに近い、というコトに拠っているんだと思います。安定した老後など自分にはあり得ない!という現実を噛みしめながら歌うと、自然にブルースが表現できちゃうんですぅー、ヤッホー! ………。


ところで、今回のテーマを決めた時、75年当時に自室で撮った自分のスナップ写真の背後に憂歌団のファーストアルバムが映っているのがあったことを思い出して、久しぶりにフォトアルバムを引っ張り出してきました。

そしたら!

憂歌団ジャケとオレ

なんと、ジャケットの絵柄が消えて「ホワイトアルバム」みたいになっているではあーりませんか(ここもチャーリー浜調で)。思わず、「仁-JIN-」(今夜最終回でした)かっ!「バック・ツー・ザ・フューチャー」かっ!とツッコミを入れてしまいました。このことはいったいナニを象徴しているのでせうか。憂歌団ブルース的人生を脱して、明るい老後が待っているというコトなのでしょうか。それはナイわな。

(映っている長髪の若者は、ホントに私ですってば。)




P.S. 昨日6月25日は、先月20日の日記でチラッとふれた、人類史上初のテレビ世界同時中継番組「アワ・ワールド」が44年前に放映された日でもありました。ビートルズが「愛こそはすべて」を歌うのを、世界中の推定3億5千万人が同時に見たそうです。私は寝てしまって見てないけど。あれは、こんな蒸し暑い夜だったんだな。アナログ放送の終焉を1ヵ月後に控え、感慨深いモンがありますね。

プロフィール

オジイ川端

Author:オジイ川端

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