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『スマイル』は、本当に笑顔をくれた。

Category : 1960年代/音楽
ビーチボーイズ・スマイルとデラックス


ビーチボーイズの『スマイル』が出ました。

うかつなことに、新聞で初めてそれを知ったのですが、最初は、ウソやろ、スマイル関連の未編集テープがコレクターズアイテムとして発売されただけじゃないの、と思っていたら、なんと、アルバムとして完成した『スマイル』が今月発売されたというのです。ちょっと、いや大変驚きました。

んー、興味ない方には、何のこっちゃと思われると拝察いたしますが、これは音楽界の「大事件」であり、私にとっても感慨深いものがあるのです。どういうことかというと――。

私が生まれて初めて購入したLPが、ビーチボーイズのベストアルバム『ビーチボーイズ・デラックス』。1967年、高校1年の夏でした。大ヒット・シングル『グッド・ヴァイブレーション』を目玉にした日本編集のアルバムです。このアルバムは高校生の間中ほんとに聴き倒し、いまでも全曲を1コーラスは空耳英語(出鱈目ということ)で歌えます。

このアルバムの解説文に、次に発売予定シングルは「英雄と悪漢」であると紹介されています。そしてこの曲を含んだ次のアルバム『スマイル』が程なく発売される予定で、本国アメリカではラジオコマーシャルが流れ、アルバム・ジャケットまで完成していました。

しかしこのアルバムは、発売延期を繰り返しながらついに完成せず、1967年内に制作中止が決定され、膨大な量の未編集録音テープがお蔵入りしてしまいました。

それが、紆余曲折を経て、今月(!)発売されたのです。

その『ビーチボーイズ・デラックス』と今月発売の『スマイル』を並べて撮影したのが上掲写真。この2枚、本来なら数ヵ月の間隔で発売されていたはずなのです。それが44年もかかっちゃいました。44年というと、コーガンの美少年(私のこと)が白髪混じり老斑満開の還暦男になってしまう年月なんです。なんという悠長な話じゃ。

44年の間に、膨大な量の「スマイル伝説」が積み上げられてきました。
『スマイル』が完成されていたとしたら、それはどんな内容になっていたのか、ビーチボーイズ=ブライアン・ウィルソンがそこで何を創造しようとしていたかについて、幾多の推理がなされ、議論が飛び交い、想像が広がっていきました。その数の多さは、気が遠くなるほどです。「スマイル専門」の研究者もいるそうです。
「音楽史上もっとも有名な未完成アルバム」とも呼ばれてきて、完成形が存在しないアルバムだからこそ、多くのファンが想像の翼を羽ばたかせてそれぞれの『スマイル』を描いてきたのですが、それが現実に発売されてしまいました。マニアックなファンの心境やいかに。これから頻出してくるだろう「スマイル論評」が楽しみです。


それにしても、なぜ1960年代の、いちポップバンドの未発売アルバムが今になって発売され、そのことが世界的な話題を呼ぶのか。それは、ビーチボーイズというバンドの特異性と、天才といわれるブライアン・ウィルソンの創り出す優れた音楽、彼を次々と襲う不幸、波乱万丈の人生などが、とても興味深く壮大な物語であるからでしょう。ロック伝説として有名なブライアンとビーチボーイズの軌跡を、拙い文章で少し辿ってみましょう。


ビーチボーイズで一般にいちばん知られている曲は『サーフィンUSA』でしょうか。
1960年頃、アメリカ西海岸の若者の風俗から生まれたサーフィン・ホットロッド・ミュージックがブームとなり、海とクルマと女の子をテーマにした陽気でお気楽な音楽を奏でるアマチュアバンド(自宅のガレージで練習することからガレージバンドと呼ばれる)がバブルのようにたくさん生まれました。
ブライアン、デニス、カールのウィルソン3兄弟と従兄弟のマイク・ラブ、ブライアンの友人アル・ジャーディンで結成されたビーチボーイズもその中のひとつでしたが、彼等は他の素人バンドに比べて抜群にハーモニーが上手くアンサンブルがしっかりした、飛びぬけた存在だったようで、まもなくプロデビューします。何曲かのサーフィンソングのマイナーヒットの後、チャック・ベリーのロックンロール曲にオリジナルの歌詞をつけ、軽快なコーラスアレンジを施した『サーフィンUSA』の全米大ヒットを放ちます。

 ♪もしアメリカ中のどこにでも海があったら
  誰もがカリフォルニアみたいに サーフィンをやるだろうね
  みんなバギーパンツにサンダルはいたボサボサ頭で
  サーフィンUSAさ
  

これが、ビーチボーイズのパブリックイメージを決定付けました。白いチノパンツとストライプのシャツのユニフォームで、海と太陽、学校の放課後、車や女の子など、ティーンエイジャーの関心事を歌う爽やかなバンドとして、次々とヒット曲を放ちます。ビートルズが突如ブレイクした64年から始まったブリティッシュ・インベイジョン(イギリスのバンドによるアメリカヒットチャートの席巻)に対抗できる唯一のアメリカバンドとも言われていました。

ビーチボーイズの曲のほとんどを作曲しプロデュースしていたのが、ブライアンウィルソン。人気バンドとしてハードなツアーをこなし、マネージャーである少々異常な父親と、営利至上主義のレコード会社に圧迫されながら、ほとんど独りで、超大物バンドとなったビーチボーイズの根幹を支えます。ビートルズで言えば、ジョンとポールとジョージ・マーティンの役割を独りでこなしていたことになるのでしょうか。

ハードな日々の重なりの結果なのか、ツアー中の飛行機の中でついに、ブライアンの精神はパニックを起こしてしまいます。そしてそれ以降、ライブ・ツアーに出ることを止め、スタジオ作業に専念することになります。

そんな折、ビートルズの『ラバー・ソウル』が発表されます。
このアルバムは、メロディーやリズムそして歌詞の斬新さ、実験性に満ちた画期的なものでした。シングルヒット曲とおざなりな埋め草的な楽曲で構成された、物好きなファン向けのレコードという位置づけだったそれまでのアルバムに反し、『ラバー・ソウル』は全てクオリティの高い楽曲のしかも全て新曲で構成され、それらは(イギリス本国では)シングル・カットもされず、アルバム中心で自分たちの世界を表現していくという現在のロック音楽発信形態の、起源となったアルバムでした。

ストライプシャツで南カリフォルニアのティーンエージャーの風俗を歌うポップバンドからの脱却を模索していたをブライアンは、『ラバーソウル』に衝撃を受けます。
自分が創りたいのはこういうアルバムだ、と思ったブライアンは、『ラバー・ソウル』を超えるアルバムを創ろうと、『ペット・サウンズ』のレコーディングにとりかかります。
ビーチボーイズのメンバーがワールドツアーに出かけている間に、詞のパートナーにライターのトニー・アッシャーを据えてアイデアを伝え、スタジオ・ミュージシャンを集めて演奏を次々と録音し、ガイドボーカルを入れて曲のほとんどを完成させてしまいます。傑作アルバムができたと彼は確信しました。
ツアーから戻ってきたメンバーには、完成した曲にブライアンの指示通りにボーカルを入れる作業しか残っていませんでした。しかもこれらの曲にはビーチボーイズに定番の海も太陽もクルマも出てこず、内省的な心情が歌われているばかりで、曲調もビーチボーイズのイメージに反した暗いものでした。
これらのことにメンバーは反発します。とくにマイク・ラブは「こんな曲を誰が聞くんだ。犬か。」と罵詈雑言を投げつけたといいます。

 ♪自分がとけ込める場所を探し続けているんだ
  だけど僕は思っていることを
  口に出すことができない
  いつまでも付き合えるような人たちと
  何とかして知り合いたいと
  僕は必死になっているんだ

                  (「駄目な僕」)


『ペット・サウンズ』は、大方のl危惧通り、それまでのアルバムに比べて売れ行きは芳しくはありませんでした。太陽も海もキャッチーなメロディーもでてこないビーチボーイズの歌に、ファンもレコード会社もメンバー自身も戸惑っていました。私もしばらくは、とっつきにくい退屈なアルバムだと感じていたものです。現在では、60年代ロックで最も優れたアルバムと誰もが認める超名盤で、全世界で累計900万枚も売れていますが、同時代にはすんなりとは受け入れられませんでした。

ブライアンは、このことにひどく傷つきましたが、創造意欲のスイッチが入りっぱなしになっていた彼は、さらなる高度さらなる深度を目指して、次のアルバムの制作に着手します。
今度は作詞家として、ヴァン・ダイク・パークスを迎え、彼との協同で、『ペットサウンズ』におけるパーソナルな精神性から、視野を広げアメリカ開拓史にまで遡ったアメリカの歴史までを織り込んだ、「アメリカへの壮大なトリップとユーモア」「神に捧げるティーンエイジ・シンフォニー」(ブライアン)を創ろうとします。『ペットサウンズ』以上の傑作を創るべく、ドラッグの力を借りてレコーディングにのめり込みますが、アイデアの断片が積み重なるばかりで、何カ月たっても曲はなかなか完成しません。ブライアンの奇矯な行動も目立つようになります。

そしてここでも、マイク・ラブが反発し、歌詞の意味を説明せよと迫って、ヴァン・ダイクが詩の講釈などできないと答えると、「本人に説明できないような歌詞を俺たちに歌わせるのか」と激怒したといわれます。
進まぬプロジェクトに嫌気がさしていたヴァン・ダイクは、このことが引き金となり、ブライアンの元から離脱してしまいました。

ブライアンは、ヴァンダイク抜きでレコーディングを続行しますが、業を煮やしたレコード会社は『スマイル』の制作中止を決定してしまいます。レコーディング開始から10ヵ月後のことでした。

そして、ブライアンはドラッグによる精神破壊が進行し、以後20年もの間、半ば廃人状態となり自宅に引きこもります。

『スマイル』となる予定だった曲の何曲かは、残りのメンバーにより手を加えられて完成され、その後数枚のアルバムに切り売りのかたちで収録されますが、ブライアンが本来目指していたものとは別の作品になっていました。

しかし信じられないことに、20年後の1988年、懸命のリハビリと周囲のサポートにより、ブライアンは奇跡の復活を遂げます。精神も体力も徐々に回復して、やがて世界ツアーをこなすまでになりました。そのなかで、『ペット・サウンズ』全曲ライブ演奏ツアーが企画され、大絶賛されます。やがてその流れは『スマイル』へとたどり着き、2004年、ブライアンはついに『スマイル』を完成させ、ライブ演奏発表し、さらに新録音によるソロアルバムとして発表します。

これで、長い長いスマイル伝説も終わったと思われました。しかし、まだ続きがありました。

それは、誰もが望みながら不可能と思われていた、1966~67年に録音された音源で「ビーチボーイズの『スマイル』」を完成させるというプロジェクトです。優れたスタッフと最新のテクノロジーを駆使し、ブライアンとマイク・ラブ、アル・ジャーディンの監修の元、ビーチボーイズの『スマイル』は、制作開始から44年目に完成しました。
少年の頃から一緒に歌ってきた2人の弟、デニスとカールはすでにこの世にいません。

 ♪波が立った
  潮の流れに乗れ
  さあ若者に混じって激しく
  時には跳ねることも
  
  僕は素晴らしい歌を聴いた
  子供たちの歌を
  子供は…… 大人の父なんだ
           
                 (「サーフズ・アップ」)


「そう、だから僕は笑ってみせる。カールとデニスが今ここで、この瞬間を共有できないとわかっていても、涙をふいて僕は笑ってみせる。そして願う。どうかこの音楽で、君も笑顔になりますようにと。それが昔、僕がこれを書いた理由だから」(『スマイル』に寄せたブライアン・ウィルソンの言葉)




各種資料を読みながら、そして『スマイル』を聴きながら、何日間かに渡ってこれを書いてきました。その間中、じんわりとした幸福感に包まれていた気がします。『スマイル』は44年遅れても世に出るべき美しい作品でした。こういうことがあると、人生も捨てたもんではないぞ、と思えます。
これを伝えられる表現力の不足にもどかしさを覚えつつ、長い『スマイル』編を終わります。







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芥川と柳ジョージが坂道で

Category : 1970年代/音楽
音楽や小説が心の中でシーンと結びついていて、あるシーンに出会うとそれらが決まって思い出されるってことがあります。

昨日は、久しぶりの休日。先週末はB-1グランプリ出展で姫路へ遠征したりして、けっこー老骨に鞭打ったんで、ゆっくり骨休めでもすればいいものを、あんまりいいお天気だったので、太平洋の水平線が望めるYスカイラインにジョギングに出かけました。

休みの日の朝は10kmくらいは走るようにしているのですが、現在の職場では勤務シフトで休みが平日になることが多く、みんなが出勤・登校している時間帯に、のんびりジョギングするのは何か後ろめたいというか、知り合いに「きょうは休み?」なんて訊かれたりするのもメンドクサイから、なるべく人々が通らない農道や裏道を選んで走っています。それでもちょくちょく出合ってしまうので、まず知り合いに遭遇することのない必殺コースとして最近重宝するようになったのが、Yスカイラインです。

ここは、80年代の人気クルマ漫画『シャコタンブギ』で公道バトルの舞台として登場する道路で、連載当時から四半世紀を経た現在でも「聖地」として訪れるファンがいるようです。でも生活道路ではなく観光地化に失敗した地域を通る観光道路のYスカイラインにクルマの影はまばらです(ここまで書くのならイニシャルじゃなくちゃんと名前を出せよ、と自分にツッコミたくなりますが、たとえバレバレでも自分の周辺は地名も含め匿名でやるというというのを原則にしてますので)。

自宅からクルマで15分くらい走り、スカイライン内の武市半平太像が建っている広場まで行きます。昨年の『龍馬伝』ブームの時でさえ、蚊帳の外状態で一人取り残され、訪れる人もわずかだった武市半平太像。昨日も着いたとき広場には誰一人いません。時折トイレ休憩のクルマか、コーナーを攻めに来るバイク乗りが立ち寄るくらい。ここにクルマを置いて、6kmほど東に走り折り返してくるのがジョギングコースです。折り返し場所のすぐ手前には、朝青龍、琴奨菊、横峯さくら等の出身校として有名なM高校への入口があります。でもやっぱりクルマもめったに通りません。

リアス式海岸の海岸線に沿った曲がりくねった山道で、平坦な部分がほとんどなく、道はしつこいくらいアップダウンを繰り返します。これがキツイ。行きに長い坂を下っていると「帰りはここを登らないかんのか」と思って気が重くなったりします。

ここからやっと本題。

そんなときによく思い出すのが、芥川龍之介の『トロッコ』という短編です。中学1年生の国語教科書で読んだだけで45年以上読み返したことはなかったのですが、主人公の少年がトロッコを押していて、登り坂があるとその分だけ下り坂があるんだと思ったりする部分を、坂道だらけのYスカイランを走るようになって、頻繁に思い出すようになりました。


蜘蛛の糸


細部はほとんど覚えていなかったので読み返してみようと、先日ブックオフでついで買いしてきました。昭和以前の名作古典といわれる本を買ったのは十何年ぶりでしょうか。
少年の頃観た映画や読んだ小説を、大人になってから鑑賞しなおすと「えっ、こんな話やったが」と、ずっと抱いてきた印象との違いにちょっと戸惑うことがあります。
この『トロッコ』も、トロッコを夢中で押しているうちに思いがけなく遠いところまで来てしまい、不安に駆られながら家路を急ぐというのがストーリーではありますが、少年期の淡い思い出を描いたそれなりに明るい雰囲気の作品というイメージをずっと持ち続けてきました。
ところが、45年ぶりに読んでみると、かなり暗めの作品でした。大人になった主人公が、少年の日に体験したあの恐怖と不安の気持ちと現在の境遇が同じように思えると述懐するのですが、そこには後年自死を選ぶ芥川の鬱屈がすでに意識を覆い始めているように感じられます。そんなこと今更持ち出すまでもない文学史の常識なのでしょうが、私には意外でした。まあ、「坂」しか覚えてなかった底の浅い接し方なもんで当然かも。


Yスカイラインで思い出すもうひとつの定番は、柳ジョージ&レイニーウッドの『青い目のステラ1962年夏』。

柳ジョージ30th


ジョギングをしていると道路のすぐ脇から100m以上の断崖になっている箇所が時折現れ、そこからは太平洋の眺望が広がります。水平線までずっと見渡せて、きらきら陽光を反射する海にぽつりぽつり船影が見えると、坂道で苦しんでいても、

 ♪沖を通る貨物船眺め テネシーワルツ歌おう
  うまいもんさ あんたに教わった
  ちょっといかしたステップ

なんてフレーズをヒイハア言いながらくちずさんでしまいますねえ。
この曲と『フェンスの向こうのアメリカ』の2曲は、本牧米軍ハウス(横浜海兵住宅地区)近辺で少年期を過ごした男の郷愁をテーマにした私小説的な内容の歌詞が秀逸で、十代最後の二年間を横浜で暮らした私自身の思い出と相俟って、もうたまらなく好きな曲です。
ほかにも、『さらばミシシッピー』『酔って候』『コインランドリー・ブルース』など、柳ジョージ&レイニーウッドには私のカラオケ愛唱曲が多いですね。

残念ながら、柳ジョージ氏は本年10月10日に永眠してしまいました。死因は過度の飲酒が原因とみられる腎不全。んー、ブルースな死に方やなあ。


それと、あと一カ月ちょっとで大掃除の時期がやってきますが、寒い季節に掃除をすると、たぶん、幸田文の『あとみよそわか』という随筆を思い出して、無性に読みたくなったりするはずです。

それでどうしたといわれても困りますけど、そんなふうに音楽や文章を思い出すのは楽しいんですよねえ。


野外フェスの原点『ウッドストック』の映画はいろいろ楽しめたのだ

Category : 1970年代/映画
野外で行うコンサートは主催側にとって、屋内でのそれよりやり終えた後の充実感というか達成感が何倍も大きく思えます。それは、会場設営などの準備や天候のことなど、しんどさやリスクの大きさと比例しているようですね。今年のように晴天のもとで開催できて、多くのお客さんが来て満足してもらえるともちろん嬉しいのですが、たとえ悪天候などで運営に苦労して、「なんでこんなしんどい野外をやりゆうがやろ」とそのときは思っても、後かたづけをしてビールで乾杯すると、「よし、来年はもっと入念な準備をして晴天を引き寄せて、気分の良いイベントにするぞ」と、再びやる気が出てくるから不思議です。長距離ロードレースを走り終えた気分と共通するところもあります。

さて、私の世代(団塊弟世代?)にとって野外フェスといえばウッドストック。フジロックではありません。ということで、前回の仕切り直しで、野外フェスの代名詞『ウッドストック・フェスティバル』についての思い出をたどってみたいと思います。


ウッドストック・ビデオ

(映画『ウッドストック』1994年のディレクターズ・カット版のヴィデオジャケット)

ウッドストック・フェス(正式名称『ウッドストック・ミュージック&アート・フェア』)が開かれたのは、1969年のことでした。当時私は土佐の小さなマチの地元高校3年生。唯一の都市といってよい県庁所在地へ出かけることもめったにない田舎モンでした。なので、ウチで購読していた地方新聞で、アメリカのニューヨーク近郊で行われた野外コンサートに数十万人が集まった、という記事を読んだときも、へえアメリカというのは何でもスケールが大きいモンだなと思った程度で、そんなに多くの人が集まったことの背景や意味についてはとくに考えませんでした。

まあそれでも、ニュースなどで頻繁に反戦デモやら大学封鎖やらのことが報じられるし、東大全共闘と機動隊の安田講堂攻防はテレビ中継までされたので、ボーッとした私でも、いまが、若者たちが社会に怒り闘ったりしている激動の時代らしいということは感じて興奮したりしていました。そういえば、柴田翔の『されどわれらが日々』に感動して、よくわからないがオレはこのままじゃいけないなんて気負って、文学青年くずれのシニカルな雰囲気でけっこう気に入ってた国語のシマサキ先生にそのキモチをぶつけにいったこともありました。『されど~』は現在では、なんでこれにカブレたんだろういやあお恥ずかしい若気の至りですな的小説の代表として有名で、シマサキ先生にも、まああれは小説のハナシだからみたいに苦笑されたことを覚えています。

当時(1960年代後半)の世界は、第二次大戦終結後のもっとも大きな激動期にありました。欧州では「プラハの春」とチェコ事件、パリ5月革命などが起こり、多くの学生や労働者が政治的行動に参加しました。アメリカではベトナム戦争の激化により、アメリカ兵の戦死者数が増大し、さらにアメリカ軍によるベトナム民間人虐殺事件なども多発したため、反戦運動が拡大しました。また、公民権法施行以後も解消されない人種差別、キング牧師の暗殺などの要因により多くの都市で暴動が頻発していました。運営民主化などを掲げた大学紛争も全土に広がっていました。

そんな時代状況を背景に、既成の体制や文化を否定するカウンターカルチャーが若者の間で広がっていきました。その中から、平和と歌を愛し物質文明から距離を置いて自然の中で自由に生きることをモットーにした「ヒッピー」と呼ばれる人々が現れ、1967年には「サマー・オブ・ラブ」という一大社会現象に発展します。彼らは反戦という政治的意志表示、ドラッグ使用による精神的解放、ロック音楽、コミューンでの共同生活、フリー・セックスなどをライフスタイルとしていました。


こうしたカウンターカルチャー=ヒッピームーブメントがピークに達しようとしていた時期に開かれたのが「平和と音楽の3日間」をキャッチフレーズとした『ウッドストック・フェス』だったのです。主催者の思惑を遙かに超えた数のヒッピーやその予備軍、シンパ、そしてただのお調子者たちがニューヨーク近郊の会場に押し寄せます。その大半の人々は入場券を持たず、会場を仕切るフェンスを壊してなだれるように侵入したため、主催者は入場料徴収をあきらめ、無料コンサートに切り替えます。

予想の10倍を超える数十万人の人々を迎える体制がなかったため、食料不足、トイレ不足などで環境が悪化し、災害地域に指定されるほど混乱します。しかし事態の深刻さに反して略奪や暴力沙汰などはほとんど発生せず、、奇跡的に、平和的な雰囲気のうちにフェスは終了します。そんなことから「愛と平和の祭典」というイメージが確立したようです。実際の会場は地獄さながらだったという証言もあるそうですが。


ウッドストック表

ウッドストック裏

(サントラ盤『ウッドストック』ジャケット 上:外面 下:中面三連見開き)


さて、映画『ウッドストック』は日本ではフェス開催の約1年後の1970年7月に公開されていますが、自分が観たのがいつ頃だったのか、覚えていません。おそらく公開直後ではなく1~2年経って名画座などに降りてきてからだと思います。以来、機会あるごとに何度か観ています。ビデオなんて無い時代ですから、上映映画館を追って観に行くのです。当時は、欧米のロック音楽の演奏シーンをテレビで観られることはほとんどなく、もっぱら音楽記録映画が頼みの綱でした。『ウッドストック』のほか、『レット・イット・ビー』、『バングラディシュのコンサート』、『フィルモア最後の日』など、70年代前半には多くの音楽映画が制作され、動くロックスター見たさに映画館に足を運んだものです。

演奏シーンがあればそれで満足ですから、どの映画も楽しかったのですが、やはり『ウッドストック』が格別に魅力的でした。開放的な雰囲気が横溢したライブ会場、地平線まで続く大観衆にミュージシャンも興奮して熱演を繰り広げます。ジョー・コッカーが、今言うところのエアギターを弾きつつ身体をフラフラさせて絞り出すように熱唱する『心の友』(ビートルズ『With a little help from my friends』のカバー)など、いま観ても感動モンです。

そしてもう一つ、青少年のココロ、いや目を奪ったのは、レコードジャケット左にもあるように、多くの若者がスッポンポンになって湖で遊ぶシーンでした。これは衝撃的。当時の日本ではあり得ない光景でしたし、演技でないシロート外人さん(仕込みの疑念もありますが)のハダカにお目にかかったのも初めてでしたので、これはウレシイ映像でしたねえ。ちょっとこれはという体型のヒトもいましたが。

まあこうしたシーンは例外として、当時は演奏以外の部分(観客ルポなど)は余計なものとして煩わしく感じられたのですが、今回久しぶりに見返してみると、そこがとても興味深くまた感慨深く思えました。数十年の時を経て、ドキュメンタリーとして見る視点が自分にできたことや歴史的資料としての価値が高くなったことによるのでしょう。

てなことを書き綴っていたら、2009年のウッドストック40周年に未公開映像を大量に追加して発売された4枚組みDVDが観たくなって、いまさっきAmazonで購入ボタンをクリックしてしまいました。やれやれ。

プロフィール

Author:オジイ川端

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