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ダイハツ三輪は霧の8マイル彼方からやってきた

Category : 1960年代/音楽
先日、ほんとうに久しぶりに、夕刻のジョギングをしました。平日に仕事を終えてから走るのは、2年ぶりぐらいになるでしょうか。ウォークマンで60年代ロックを聴きながら、夕陽に染まる川沿いの土手をゆっくり走っていたら、またここに戻ってくることができたなあ、みたいなシミジミとしたモノを覚えました。このブログを始めたこともそのあらわれですが、アイデンティティの回復といえば大げさでしょうが、この何年かでほつれたところが少しずつ修繕され、気力が戻りつつあることが感じられたからです。まあ、いろいろあったのよ、私なりに。

そんな感慨に耽ったりしながら、橋のたもとにある道の駅の前を通りかかったときでした。このブログのテーマの一つである「昭和」そのままの車が、スーッと駐車場に入っていったのでした。

ダイハツ三輪トラックCM型

それは、昭和37年-47年(1962-1972)にかけて生産されていた、ダイハツの三輪トラックでした(写真は、同型車のカタログ写真。「昭和30年代の車」というサイトから転載させていただきました)。
50年前からタイムスリップしてきたかのようなトラックが、引越し荷物のようなもんを積んで、フツーに道の駅に入っていったので、「おお、スゲー!」と思わず声に出して、後を追いかけ、降りてきた意外と若いドライバーに話しかけてしまいました。

「ものすごく懐かしいクルマですねえ。ふだんから乗ってるんですか」
「まあちょくちょく、たくさん荷物を運びたいときなんかに」
「ふつうに乗ってるんですか」
「いや、けっこう大事に乗ってますけど」
「ああ、そりゃそうですよねえ」
などと、マヌケな質問をしましたね。

つまりですねえ、これほど昔のクルマにはクラシックカー・イベントとか博物館の展示でしかお目にかかれないのに、現役の実用車的に荷物などを運んでいたので、そこらあたりを聞いてみたかったのですよ。
このダイハツの三輪、小学生の頃けっこうファンでした。マツダにも同クラスの三輪がありましたけど、私はこっちがずっと好きでした。ちなみにマツダは、こんなのでした。

マツダ三輪トラック

改めて見ると、マツダ車もタヌキみたいなルックスで愛嬌があってイイですねえ。このマツダ車もダイハツ車も呼び名は単なる「三輪トラック」で、現在の「ハイゼット」とか「タイタン」のような愛称がありません。「俺たち現場のクルマにゃチャラチャラした愛称なんざイラネエやい!」みたいな気風の、いかにも質実剛健なヤツラです。
思い出してみると乗用車よりトラックやバスなど「働くクルマ」のほうが好きだったような気がします。コドモはみんなその傾向があるかな。

そのダイハツ三輪トラック、荷台のロープのかかり具合を点検するために停車しただけらしく、ちょっと確かめて、さっさと走り去ってしまいました。

その時、Walkmanでかかっていた音楽が、ザ・バーズの「霧の8マイル」。

バーズ/霧の8マイル

(ジャケット写真は「サイケおやじ」さんという方のブログから無断拝借です。この方のジャケ写は質がよいので、これまでもこれからも、です。すんません)

1966年の作品。前年まで青春歌謡に酔っていた私も、この頃になると『ミュージック・ライフ』や『ティーン・ビート』などの音楽雑誌を貪り読むようになり、そこに載っている全米チャートを見てはレコードを買うという洋楽カブレとなっていました。たとえば、66年3月5日のビルボード・トップ10で数えてみると、そのうち6曲のレコードを買っていますから、その当時のハマリぶりが伺われます。

この『霧の8マイル』は、サイケデリック・ロック、トリップ・ソングのハシリともいわれ、LSDなどの麻薬による幻覚状態を表現したものではないかと物議をかもしたそうです。全篇コーラスの歌と、当時は斬新でコルトレーンのアドリブっぽいといわれた、ジム・マッグィーン(後のロジャー・マッギン)の12弦エレクトリックギターのプレイが、やたらとカッコ良いと思えた曲です。

麻薬はもちろん酒さえも飲んだことのない14歳の私にどれくらい理解できていたのかわかりません。当時の日本は昭和元禄といわれ、平和と高度成長の真っ只中で、みんな浮かれていました。でも、なんかおかしいぞ。アメリカはいまでも戦争しているらしい。その証拠に大ヒットしているのは『悲しき戦場』、軍隊の特殊工作部隊のことを讃えた歌や。それと同時に戦争に反対する歌もたくさんある。アメリカは、どうなっちゅうがやろ。なんて疑問は頭に浮かばす、『悲しき戦場』も『霧の8マイル』も、カッコ良い洋楽として、ただボーッと聴いていました。

あれから45年。なんか人生ひと巡りしてきてけど、自分にとってさまざまなことがまだ霧の8マイルの彼方にあります。馬齢を重ねるって言葉がピッタリ。そうか、還暦っていうのはこのことに気づく節目の年齢だったのかって、ちがうやろ。




可愛いから歌がド下手だっていいんだ内藤洋子様!

Category : 1960年代/音楽
中学生になると新聞配達を始めて、そのバイ代でセッセっとレコードを買うようになったのですが、なぜか女性歌手の盤を買ったことはほとんどありませんでした。歌謡曲全盛の時代でしたから、テレビからは毎日のように女性歌手が、
  ♪あなたが噛んだ 小指が痛い
   きのうの夜の 小指が痛い
とか、
  ♪夕べのことは もう聞かないで
   あなたにあげた 私の秘密
なんて歌いかけてきて、このお姉さんたちが前夜何をしたのか妄想したりもするのですが、色気づいてはいても想像力が足りないアホな頭には、大人の歌の世界はあまり入ってきませんでした。そのかわりに魅かれたのが青春映画女優たちでした。

映画は視覚から大脳にストレートに伝わってくるから、単純な中坊には最適のメディアでして、とてもハマりましたとも。新聞肺配達でヒトケの無い早朝の街を通るのをいいことに、映画の宣伝ポスターをちょくちょく盗みましたとも。なかでも必ずゲットするよう心がけて?いたのは内藤洋子のものでした。内藤洋子! ああ、土佐の田舎町の洟垂れ小僧の脳内をお花畑にした彼女こそが、アイドル歌手の元祖ではないか、というのが私見であります。

60年代から「アイドル」という言葉はありました。広く知られるようになったのは63年にシルビー・バルタンの「アイドルをさがせ」という曲が日本で大ヒットしてからといわれています。ビートルズの主演映画二作目も「4人はアイドル」という邦題がつけられていましたねえ。これらの例からも窺えるように、60年代頃まではアイドルは「外国の青春スターについて使われる言葉」(Wikipediaより)だったようです。それが「未成熟な可愛らしさや身近な親しみやすさに愛着を示す日本的美意識を取り入れ」(同上)た日本独自のジャンルとなったのは70年代半ばだといわれています。

まさに、この日本的アイドルの要素を数年も前に先取りしていたのが内藤洋子でした。ひらたく言えば、可愛ければ歌が下手でもまったくオーケーさ、ということを圧倒的に納得させた最初の少女が彼女だったのです、ええ。黒澤明「赤ひげ」がデビュー作という超エリート。後にアイドル映画の定番となる『伊豆の踊り子』にも主演して、ほんと王道を行ってるかんじの青春スターでした、うん。

内藤洋子/白馬のルンナ

歴史的名曲『白馬のルンナ』。映画『その人は昔』の挿入歌として発売され大ヒットしました。舟木一夫主演の歌謡映画で、もちろん観に行きましたが、内容は全く覚えていません。舟木と内藤洋子が出ているということにのみ価値がある作品だと思います。なにより衝撃を与えたのは内藤洋子の歌でした。へ、へたすぎる!でもカワイすぎる!!と日本中の少年が雄たけびをあげました。かどうか知りませんけど。

それ以前にも、吉永小百合(『寒い朝』)、和泉雅子(『二人の銀座』)とか、歌の下手な女優さんはいましたが、内藤洋子は次元が違っていました。ファンの私も『白馬のルンナ』を聴いているとは、さすがに公言できないほどでした。70年代に浅田美代子が『赤い風船』を歌うことができたのは、内藤洋子が道を切り開いたからに他なりません。いや、決して内藤洋子様を貶めているわけではありません。
  
  ♪ルンナ 月の浜辺のルンナ
   ルンナ 星を見ているルンナ
   ルンナ おとぎばなしをしましょ
   ルンナ ないしょばなしをしましょ

んー、メルヘンやなあ。秘かにこの曲を聴いて、『伊豆の踊り子』の露天風呂シーンなどを思い浮かべながら、15歳の少年の夜は切なく過ぎてゆくのでした。

北原謙二 ~My はじレコ~

Category : 1960年代/音楽
思い出を辿ってみると、小さい頃から、自分が一番好きになるのは、世間の一番人気の人やものではなく、二番目以下、だいたい中堅どころというのが多かった。判官びいきといえば聞こえはいいが、どうなんだろう。競争が激しいところはハナから避けるという逃げの姿勢かも知れないし、行列のできる美味しい店より不味くてもすいてる店がメンドクサクなくていいみたいな覇気のなさのあらわれかもしれないし、とにかく気がついたらそんな選択してるんだから仕方ないでしょ!フンッ!みたいな。
音楽はじめ様々な趣味のヒイキの方向性に、そんな性癖が反映されているように思います、というようなことなんかも折にふれ書いてみたいな、と思ったりする今日この頃です。くどい文章やなあ。

音楽に目覚めたのは昭和39・40年(1964・1965年)くらいだったろうか。東京オリンピックの前後ですね。
テレビが一般家庭に急速に普及し、歌番組を通じて青春歌謡が全盛期を迎えようとしていた時期で、テレビ歌謡曲番組がいくつもありました。レコード会社別の番組まであったもんね。その頃なんといっても人気が高かったのは、御三家と呼ばれる橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦でした。まあ彼等の曲もそこそこ気に入り、いまでも歌詞を覚えていて歌える曲が多いのですが、レコードを買うまでには到りませんでした。

当時、私がいちばんヒイキにして、たぶん生まれて初めてレコードを買った歌手は北原謙二という人でした。
カントリー&ウェスタン出身で、「北風」というカントリーの有名曲のカバーもあり、カントリー音楽特有の鼻にかかった高音ボイスと節回しが、他の歌手とは一線を画していました。

北原謙二/北風

背も高くなく、どっちかというとズングリした体型で、青春歌手としては地味だったなあ。そこに親しみを感じたのかも。「北風」は1番は日本語、2番は英語で歌われるのですが、歌詞カードの英語にすべてカタカナのルビを振ってくれてたのが笑えました。北原謙二の発音も思いっきりカタカナだったし。
  ♪ウェラ ワンサイ メール プリリル ガール シー ウェル フェー ツーシ~♪ 
という英語詞の歌い出しを45年経った今でも覚えています。え、意味わかんない? そうですよねえ。僕の耳にはこう聞こえたというソラミミ歌詞なんで。歌詞カードはもっと単語に忠実なカタカナ振り仮名だったと思います。日本語詞は、
  えくぼのかわいい娘(こ)だったが
  北風が連れていっちゃった
  今ではあの娘を呼んだとて
  冷たい北風吹くばかり

中1の頃、クラスの決めごとに違反したらホームルームで歌を歌う罰ゲームがあって、そんなとき北原謙二のシングルのB面曲を歌ったりして、バカでした。誰も知らんわい、そんな曲。

北原謙二/ふるさとの

「ふるさとのはなしをしよう」。この曲はたしか、「クレハ・ホームソング」というラジオ番組でアマチュアから募集した詞に曲をつけたもので、恋だ愛だの定番的ナンパ世界ではなく、いつまでも心にとどめておきたい故郷の風景を描いた、美しい内容の詞にとても惹かれました。

  砂山にさわぐ潮風
  かつお船入る浜辺の
  夕焼けが海をいろどる
  君が知らないぼくのふるさと
  ふるさとのはなしをしよう

生真面目で純情な少年だった僕、13歳。ビートルズという名前を初めて聞いて、いっきに洋楽になだれ込む前夜の時代のことでした。そういえば色気づく年齢だとゆーのに女性歌手のこととか出てこなかったなあ。これについては次回に書こうっと。


(今回は、日記開始を記念して記憶に挑戦!ということで、敢えて資料を確かめることなどはせず、思い出だけをたよりに書いてみたので、マチガイはいろいろあると思いマス。次からは少しは調べて書きマス。)
プロフィール

Author:オジイ川端

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