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川本三郎は、わがポンコツ・ヒーロー

Category : 心のほとんどは60年代と70年代でできている
映画『マイ・バック・ページ』のレンタルDVDが、準新作扱いとなるのを待って借りてきました。


マイバックページdvd


川本三郎の原作本は十数年前に買っていたのですが、あまりにも内容に関する記憶がないところからすると、ひょっとしたら読まずに本棚へ直行させたのかもしれません。そのおかげで(?)、へんな先入観もなく素直に映画を鑑賞することができました。
映画を観た後に原作を読み返してみたのですが、2時間前後という時間内で完結しなければならない映画の制約を考えると、枝葉のエピソードをカットし原作の最重要部分にほぼ絞った映画の内容は、正解というか仕方のないところで、その点でよくできた脚本だということがわかりました。キャストも妻夫木聡、松山ケンイチの大物若手実力派は看板に偽りなしの演技ですし、古舘寛治、山内圭哉ら、不勉強でこれまで知らなかった劇団系のバイプレイヤーが存在感溢れてて実にいいですねえ。エンディングロールに流れる真心ブラザーズ&奥田民生の主題歌もグッときました。

でも、個人的に胸に迫ってくるものの質量が圧倒的に大きいのは、やはり原作の『マイ・バック・ページ』。


マイバックページ文庫本


(写真は1993年刊の河出文庫版。同作は1988年刊の親本ともども長らく絶版になっていましたが、今回の映画化を機に平凡社から復刻されました。)


69年に朝日新聞社に就職してから71年に同社を解雇されるまでの、若き日の著者の熱く切ない3年間を描いた自伝です。

当時の日本は、幕末以来最大規模といってよい若者による政治闘争の時代でした。同書の記述から主なものを掲げると「佐藤訪ベトナム阻止羽田闘争」「国際反戦デーの新宿騒乱」「東大安田講堂事件」「沖縄反戦デー」「佐藤訪米阻止闘争」「三里塚強制代執行阻止闘争」など。これらは、いわゆる「反体制」を旗印に、学生を中心とした若者が大集結して直接行動にでたものでした。これらに対し体制側は大量の機動隊を配備し、両者は暴力を伴う衝突を繰り返しました。学生に死者が出たことなどから双方の暴力がエスカレートしていき、東京近辺はちょっとした内乱状態を呈していました。とはいっても闘争に積極的で直接行動を起こしたのは若者全体からみればごくわずかで、当然のことながら大多数の若者は行動に踏み出すことはなく普通の生活の中にありました。そして、この「傍観者」であることに後ろめたさを覚え、社会と自己の関係に悩む心ある若者もまたそこらへんに普通にごろごろいた時代でした。

著者は、そうした良心的な若者のまさに典型で、ジャーナリストとなった当初から「見ているだけ」の自分に苦しみ、常に後ろめたさを背負いながら時代を生きた人でした。その「負い目」が判断を誤らせ、間接的に殺人事件に関わることになり、有罪判決を受けて、新聞社を解雇されることになります。

この事件は当然『マイ・バック・ページ』の中心テーマとなっていて、事件後十数年を経て初めてこの事件を詳細に記すことになった著者の文章は痛みと苦渋に満ちています。それは引き受けなければならない痛みであり、川本氏は過去を美化したり責任転嫁する陥穽にはまることなく誠実に書ききっていると思います。

それは胸を打つことではありますが、私にとってこの本を興味あるものにさせているのは、事件前に彼がであったさまざまな人々、映画や音楽を始めとする当時の文化、なかでもサブカルチャーの雰囲気が横溢した中央線沿線での生活と、それらを感じ取る著者の感性です。保倉幸恵、鈴木いづみ、シバ、永島慎二、赤瀬川源平、取材でであった若者、戦傷者。ここでも彼等に対する親しみ、負い目などを抱えながら、感傷的な視線で回想します。それがダメなところと自己評価もしていますが、まさにその弱者の視点、感傷的なところに共感してしまうのです。私もまた、あの時代の多くの川本三郎の一人だと感じるのです。彼よりはずっと底辺にいましたが(彼が朝日ジャーナル記者のとき私はそれを配る新聞店員でしたから)。


最初に読んだ川本三郎の著書は『朝日のようにさわやかに―映画ランダムノート―』でした。

朝日のようにさわやかに文庫本


その本の出だしはこうです。
「暗い映画館の隅っこでスクリーンの中の女優を見つめていると、それが冴えない女優であればあるほど心ときめいてくる。一流どころよりも、ほんのちょっとしか出番がなかったり、映画が始まってわずかなうちにあっけなく殺されたり、あるいはまた、いつもいつも汚ない格好で登場したり、男に決まって裏切られたり、そんな女優に心惹かれ続け、自分ではひそかに彼女たちを〝ポンコツ・ヒロイン〟と呼んでただひとり熱愛している」。
さらに、敗者のヒーロー、B級映画のチンピラなどへの偏愛を語るひねくれた映画批評集です。
極めつけは「シネマ裏通り」という章に綴られるピンク映画女優たちへのオマージュです。都会の片隅のポンコツ映画館で日陰の女優たちによって演じられるパートカラーの密やかな性の供宴。この本を読んだ時から、なんとなく私は、こんな日の当たらない冴えない映画に惹かれる、どこか心に傷を負ったようなセンチメンタルな川本三郎のファンになりました。

そのときは気づきませんでしたが、この本は、朝日新聞社解雇後、フリーライターとなった著者が、前科持ちのため仕事に恵まれず、永らく苦労した末にようやく出版した記念すべき第一作品集だったのです。敗者へのシンパシーもむべなるかな、です。

川本氏が解雇されず記者を続けていたら、どんな文章を書いただろうか。敗者やサブカルチャー的なるものへの優しい視点は保っているだろうが、なんというか湿り気を帯びて背中を丸めたような独特の親しみのある文章にはなっていないだろうという気がします。

そういう点では、彼がクビになってこちら側に来てくれたのはいいことです。

川本三郎を勝手にポンコツ世界へ歓迎したところで、本日は失礼します。ちなみに私が好きだったシネマ裏通りのヒロインは、川本氏には取り上げられてませんでしたが、「ワキ毛の女王」こと二条朱美でしたよー。



浅川マキのダークネスは無理せず頑固に生きた証なのだ

Category : 1970年代/音楽
一カ月前に還暦となりました。

そのとたんに、TSUTAYAでCD借りたらシニア割引されるし、シネコンの映画チケットもシニア料金ボタンを押すよう教えられるし、で軽いショックを受けています。年金相談会の案内もきて、つまり社会的に「老人」と宣告されたわけで、これってやはりあまり気分の良いものではアリマセン。

そのことへの反発、精神的なアンチ・エイジングのようなつもりなのか、このところやたら新しいこと始めたり、興味の対象を広げたりしているような気がします。ケータイをスマホに替えて、ツイッターやフェイスブック始めたりムービー作ったりMIDIいじったり、つい最近までなんとなく面倒で遠ざけていたことに取り組むようになりました。音楽も60-70年代だけでなく、最近の人のも聞きたくなって『レコード・コレクターズ』だけじゃなく『ミュージック・マガジン』も読むようになった。新しい映画のこと知りたくて初めて『キネ旬』買ったし。

自慢? そう、オレは年寄りじゃない!とアピールしたいがです、周りや自分に向かって、たぶん。これは一時的な「還暦ブルー」の裏返しなのでしょうかねえ。

こんなことではいけない。このブログのテーマは「人は時代の虜囚、感性は若者の時に鎖に繋がれ、それを断ち切ることは一生できない。ゆえに常に後ろ向きに何度も何度もあの時代に立ち返り自分の成り立ちを検証するんじゃいボケ」というものですから、軽々しく「いま」に擦り寄ってはいけないのです。

というわけで迷いを振り切って、ここは「時代に合わせて呼吸するつもりはない」と言い切って、60年代末から自分のスタイルを貫き通し2010年に亡くなった浅川マキに登場してもらわねばなるまいぜよ。


浅川マキ/浅川マキの世界

浅川マキの世界  1970



浅川マキ/セカンド

MAKI Ⅱ  1971
 


浅川マキ/ライブ

MAKI LIVE 1972



浅川マキ/blue spirit blues

ブルー・スピリット・ブルース  1972



浅川マキ/裏窓

裏窓  1974



浅川マキ/灯ともし頃

灯ともし頃  1976



浅川マキ/流れを渡る

流れを渡る  1977



浅川マキ/ライブ夜

浅川マキライブ 夜  1978



浅川マキ/寂しい日々

寂しい日々  1978




浅川マキ1970年代のアルバムを発表順に並べてみました(6thのみ欠落)。ファーストはCDですが、それ以外はアナログ盤ジャケットを撮影したものです。

どうです!! 味があるでしょう? 暗い背景に黒ずくめの衣装で統一されたジャケットデザイン。黒にこだわった彼女の美意識は終生変わることがありませんでした。90年代から編纂されだしたベストアルバムシリーズも『ダークネス』というタイトルですから。

「黒」と並んで浅川マキを象徴するキーワードといえば「地下」でしょうか。60年代後半には「カウンターカルチャー」が世界的に大きな潮流になりました。支配的な既成の文化(オーバーグラウンドのメインカルチャー)を否定し、対抗する若者文化が大きな運動となったのでした。日本では「アングラ(アンダーグラウンド)」と呼ばれ、特に音楽や演劇に新しい勢力として台頭していきました。政治的な対抗勢力「新左翼」とも連動して、地域的には東京新宿を中心にして、なにやら熱いものがうねっていましたねえ。

60年代アングラ演劇の旗手、寺山修司にその個性を見いだされて本格的な歌手デビューをしたのが浅川マキでした。アングラの特徴のひとつに暗く土俗的、情念的なるものがあげられます。60年代の猛烈な高度成長がもたらしたひずみとして逆照射された暗部を、アングラ演劇では好んで取り上げました。浅川マキはデビューアルバムから既にこういった要素をたっぷり含んだ世界を確立していました。日本の演歌的な情念とブルースやロック、ゴスペル、ジャズの要素を融合した独特な「浅川マキ節」を創り上げ、信頼するミュージシャンと共に、その後40年間ブレることなく歌い続けました。

とはいっても、暗く重い歌ばかりではなく、70年代の彼女には、少年(的なるもの)に対する含羞や、稀代のプレイボーイ・ロックシンガーのロッド・スチュワートがお気に入りで彼の曲を度々カバーするなど、若い女性らしい明るい一面もあり、その意外性もまた魅力となっていました。

彼女を支えた人達としては、山下洋輔、坂田明、つのだひろ、向井滋春、稲葉国光など当時の一線級ジャズメン、戦前の伝説的トランペッター南里文雄、若き日の坂本龍一、近藤俊則(後の等則)、レコーディング・エンジニアの吉野金次(上掲のアルバムのほとんどを録音)、写真家の田村仁(上掲のジャケット写真ほとんどを撮影)など、錚々たるメンバーがあげられます。私は、大学生の時に浅川マキに抜擢されたという、萩原信義の力強いヘタウマ?ギターが大好きでした。

浅川マキのアルバムは、よく売れて1万枚、だいたい数千枚しか売れなかったそうです。ふつうならメジャーレーベルからは契約を打ち切られる売れ行きなのですが、彼女は死ぬまで東芝EMIの所属でした。いかに彼女の存在が貴重であったかの証でしょう。また、彼女はCDの音質に不信感を抱いていたそうで、上掲のアルバムのほとんどは彼女の意向により、CD化されることなく廃盤となっていました。それが彼女の死後どっとCDで再発売されて聴けるようになったのですから、ファンとしては複雑な気持ちですね。

彼女が作った曲にも好きな曲はもちろんたくさんありますが、なにか1曲選べと言われたら、上記ロッド・スチュワートのカバー『ガソリン・アレイ』ですかねえ。憂歌団の『シカゴ・バウンド』と同じような内容で、帰郷ソングというのでしょうか、都会の暮らしがうまくいかなくて田舎に帰ろと思う歌ですね。彼女が残した曲の中でいちばんハードでロックっぽいナンバーです。

  ♪何もかもがうまくいかなくてさ 毎日毎日が
   これじゃおいらが生きてることさえ無駄な気がしてきた
   帰ろう おいらが生まれたあのガソリンアレイへ
   帰ろう 細い路地のあのガソリンアレイへ
                        (日本語詩/浅川マキ)


私もかつて同じように、都会の暮らしに挫折して田舎に戻ってきた身ですから、この歌への愛着も一入なんです。
まあ、彼女自身は一貫して大都会に住み続け、その孤独を歌に刻み続けてきたのですが。

今の世は、皆自分の中の暗いものを隠そうとします。そうして無理をしてあるとき心が折れる。彼女の歌を聴いていると、今の人はもっと暗さを飛散させてもいいじゃないか、なんて還暦ブルーのオジイは思いますよ。


眠くなってきたので、尻切れトンボ的に強引に落ちないオチをつけてしまいました。お休みなさい。




日は昇り日は沈み、クロディーヌおねえさまは……。

Category : 1960年代/音楽
前回に続き、ストーンズ関連というか、ストーンズきっかけネタです。

年末にローリング・ストーンズ『女たち(デラックス・エディション)』を買いました。前々回書いたように、私は成人してからはストーンズをほとんど聴いていなかったくらいで、熱心なファンではありませんから、買うならオリジナル・バージョンで十分なのですが、未発表発掘音源が多数収録されたデラックス・エディションを買ってしまったのは、この「オマケ」のなかに気になる曲が含まれていたからです。

その曲は『クロディーヌ』。私が少年期の愛聴曲『サンライズ・サンセット』の歌手であるクロディーヌ・ロンジェのことを歌った曲です。

クロディーヌ・ロンジェ

ロックではないし全米チャートの上位に入ったわけではないこのレコードを、なんで買ったのかさっぱり思い出せませんが、買ってからはけっこう繰り返し聴きました。考えてみると、私は「時は過ぎ、幼かった子どもが、はや大人になった、人生、感ありだなあ」みたいなテーマが好きなようです。『ケセラセラ』とか『サークルゲーム』の歌詞が妙に気に入っていますし、このブログのテーマも、まあそのようなもんともいえます。

  ♪抱っこしていた小さな娘
   遊び回っていた小さな少年

   いつのまに彼女は美しくなった?
   いつのまに彼はこんなに背が高くなった?

   日は昇り、日は沈み
   年月は速く飛び去ってゆく
   季節は巡る
   幸せと涙をのせて

こんな感じの歌詞。1964年に初演のブロードウェイ・ミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』の挿入歌だそうですから、クロディーヌ・ロンジェのバージョンは、今ではスタンダード化したこの曲のかなり早い時期のカバーということになります。
ジャケットのポーズからも想像できるようにクロディーヌは、ブリッ子風というか清純派というか、歌い方も「ささやき声(ウィスパ^・ヴォイス)」で、私は知らなかったのですが「ウィスパー・ヴォイスの女王」と呼ばれていたそうです。少年は、オネエサマに耳元で囁かれるのにヨワイんです。


月日は流れ、クロディーヌ・ロンジェのことも何十年も忘れていましたが、昨年末『女たち』を特集した雑誌を読んでいたら、ストーンズが彼女のことを歌った曲が収録されている、と書いてあるじゃありませんか。そして、そこには後のクロディーヌについての衝撃の事実が……。

ストーンズの歌は--

  ♪クロディーヌは刑務所へ逆戻り
   週末になるとしでかす クロディーヌ

   彼女は彼を撃った
   頭に一発 胸に一発
   判事の裁定は事故だった
   事故なら仕方ない そうだよな クロディーヌ

1978年に恋人を撃ち殺したクロディーヌのことを歌ったロケンロールなのでした。

彼女は、彼氏に銃の扱いを教えてもらっている最中に起こった暴発事故だったと主張しました。しかし、銃はかなり離れた距離から2発撃たれており、暴発とは考えにくい状況だったそうです。しかし、そこは陪審員制度の国アメリカです。敏腕弁護士が陪審員の同情を引くあの手この手を使い、みごと禁固ン十日という温情判決を引き出しました。素晴らしい。かの国ではこんなことがよくありますよねえ。劇場型法廷では彼女が好感度の高い国民的大歌手アンディ・ウィリアムスの元妻で、清楚な雰囲気の美人だったことが大いなる利点となったのは間違いないでしょう。その後、彼女は地獄の一歩手前で救い出してくれた敏腕弁護士と結婚し、幸せに(かどうか知りませんが)暮らしているそうです……。


まさにサンライズ・サンセット。月日は巡り、ささやき声のオネエサマも殺人(いや過失致死)者になりました、という強烈なオチ。

ほんと、数週間前に知ったキツイ事実でした。





つい盗みたくなる、それがライ・クーダー。

Category : 1970年代/音楽
明けましておめでとうございます。

本年も、ぽつりぽつりと、独善的な文章を書き連ねていきたいと思います。徒然な折りにでもお読みくださいませ。



RY COODER_pull up some dust and sit down


毎年、元旦ジョギングしながらウォークマンで聴くBGMが音楽聴き初め。今年初の音楽はライ・クーダーの最新アルバム『プル・アップ・サム・ダスト・アンド・シット・ダウン』。昨年秋に買ったまま、聴かずに放ってあったもの。レンタルじゃないからいつでも聴けるし、みたいなことで何となく後回しにしていましたが、昨年末ストーンズの初期名作3枚を聴いていて(前回ブログ)、そうだライ・クーダー聴かなくちゃ、と思い出したのです。

なんでストーンズでライ・クーダーを思い出すのかは後述するとして、このアルバムは良い!五つ星です。ど真ん中ストライクです。1曲目から懐かしいルーツ・ミュージック・テイスト濃いめのライ・クーダー節全開で、ジョギングの足の運びも軽やかになる楽しさです。ライ・クーダー個人名義の新作アルバムを聴くのは実に三十数年ぶりなので、なんか小難しくなってたらイヤだなあと心配していたのですが、それはまったくの杞憂で、ムカシと変わらず、とぼけていて暖かく懐かしい伝統に根差した芯の太い音を聴かせてくれるのでした。

オレは日本人なのに、何でアメリカの古い音楽がこんなに心に染み入るがやろ、日本の演歌や民謡にはあまり心を動かされんのに、そうじゃ、前世のオレは戦前のアメリカのシェア・クロッパーか白人炭坑夫だったに違いない、なんて思うほど、私には古いブルースやカントリー音楽がしっくりときます。ジャズやシティ・ブルースよりは、アパラチア系白人伝承音楽や南部カントリーブルースに惹かれるところが、前世はボンビー(古い言い方!)な田舎の下層米国人だったと想像する所以。

私とは比較になりませんが、ライ・クーダーは、そんな古い音楽を大好きになった人で、デビュー作からずっと、不況時代とかの古いフォークソングやブルースを発掘して、独特の解釈、アレンジで現代に蘇らせ続けてきました。当初はアメリカ音楽が中心でしたが、その後、メキシコやハワイ、キューバ、さらには沖縄音楽と、そのルーツ志向は世界的広がりを見せるようになり、最新作では、それらを融合したオリジナル曲で独特のライ・クーダー・ワールドを構築しています。それぞれの地域・時代の音楽への愛にあふれた真摯な音づくりが、高い評価を得ています。

そんな彼とよく引比較されるのが、ポール・サイモン。彼も早くから南米やカリブ海そしてアフリカの伝承音楽とそのリズムに目を向けてきた人ですが、彼には、自分の利益ために世界の貴重な音楽遺産を食い物にしている、というような悪い評価がついてまわります。かつては、大国による文化侵略になぞらえられたりもしたようです。私自身はポール・サイモンかなり好きです。セカンド・ソロアルバム『ひとりごと』に入っているニューオリンズへのオマージュ『夢のマルディグラ』などは、いつ聴いてもゾクゾクするくらいいい曲です。けど、そんな評判に足を引っ張られますね。

ポール・サイモンのことはまたの機会においといて、ライ・クーダーでした。

ライクーダー登場

ライクーダー登場ウラ

1970年のファースト・アルバム。エレクトリック&アコースティック・スライド・ギター、フィンガー・ピッキング、マンドリンと、現在聴くことのできる彼のギタースタイルが、この時既に完成形で出揃っています。伝説的ラグタイム・ギタリストのブラインド・ブレイクの名も彼のカバーで初めて知りました。そして、今ではよく知られていますが、当時の日本のロック愛好家の多くはこのアルバムの解説で初めて知ったんじゃないかと思われる面白いエピソード。

それは、ローリング・ストーンズの超名曲『ホンキイ・トンク・ウィメン』の、あの有名なイントロギター・フレーズ、いつ聴いてもシビレますが、あれはライ・クーダーのフレーズを、そっくりそのままキース・リチャード(現リチャーズ)が盗んものだったというお話。

ホンキイ・シングル盤

1969年、ライはストーンズのアルバム『レット・イット・ブリード』のレコーディングに招かれます。スタジオに行ってみると、アレンジ等の準備はほとんどできていず、ストーンズのメンバーはただダラダラと過ごしていたそうです。ライは求めに応じて、様々なギターフレーズを弾いてみせ、それが録音されました。その中に、件の『ホンキイ~』のセッションがあり、そこで彼はあの名高いフレーズを弾きます。ところが曲が完成してみると、ライではなくキースがそのフレーズをそのまま弾いており、ギタリストであるライの名前はどこにも出てこず、わずかに他の曲のマンドリン奏者としてクレジットされただけでした。完全にフレーズを盗まれたライは怒り、訴訟を起こそうとしたほどだったようです。

ライのファーストアルバムの時点では、この件は解決していなかったとみえ、解説に彼の怒りの暴露発言が載っているのですが、その後1972年に、ストーンズ側がライの参加したセッションをアルバム『ジャミング・ウィズ・エドワード』として発売し、印税をライに支払うことで、決着したようです。

まあ、キースとしては、フレーズが出てこず煮詰まっているところへ、聴いたことのないとびきりユニークなフレーズをライが弾いたモンだから、思わず飛びついてしまったのでしょう。オレは天下のキースだけど、奴は無名の若造ギタリストだから、何か言ってきても、オレがフレーズ盗んだなんて誰も信じまい、と思ったのかもしれません。

しかし、論より証拠。ライのファーストアルバムを聴くと、そこには明らかにライの血肉となっているのが間違いないギターフレーズがてんこ盛りで、それらは『ホンキイ・トンク・ウィメン』の独特のノリを感じさせるものでした。そりゃ、ライの言っていることが真実だと、誰もが納得せざるを得ません。

ということで、デビュー前から、キースに盗まれるほどの腕を持っていたギタリスト、ライ・クーダー。その後、味わい深いアルバムを次々と創り、90年代にキューバのミュージシャンを発掘し共演した『ブエナビスタ・ソシアル・クラブ』で、世界的に有名な存在となります。しかし、ビッグ・スターになっても変わることなくお気に入りのマイナーな音楽をお気に入りのミュージシャンとともに演奏するという地味なスタイルを続けているのが、彼の素晴らしいところですねえ。

私は数年前、地元では彼の知名度があまり高くないことをいいことに、彼の沖縄ソング『ゴーイング・バック・ツー・オキナワ』に日本語詞をつけ、『すさきへ帰ろう』という題名で、自分のオリジナル曲のように歌っていたことを告白したところで、本日のオチとさせていただきます。失礼しましたー。










ロックはストーンズとともに年老い、かつての少年も老年を迎え、でも……。

Category : 1960年代/音楽
昨日のジョギングのBGMはローリングストーンズでした。『ベガーズ・バンケット』、『レット・イット・ブリード』、『スティッキー・フィンガーズ』。1968年から71年、一時期の迷走を脱して腰が据わり、世界一のロックバンドへとのし上がっていく途上の大名盤三連発。

寒い朝に聴くストーンズはいい。ホットで粘っこくて。よく煮込まれたアツアツのシチューみたいに体を温めてくれます。そのぶん夏に聴くのはちょっと辛い。若い人なら暑い季節をより熱く楽しむのでしょうが、この歳になると少々モタレます。


19回目の神経衰弱/Rストーンズ

まったくモタレたりしなかった1966年、14歳の私が、初めて買ったストーンズのレコード。これを選んだのはビートルズのときと同じで、田舎の小さいレコード屋さんではその時点での最新シングルしか手に入りにくかった、という理由だったと思います。

聴いたときの第一印象は、きれいにまとまった曲で、ビートルズより温和しめのバンドという感じ。まだ『サティスファクション』も『一人ぼっちの世界』も聴いていなかったので。いま聴くと、クリアーなギターリフや軽快なリズムが、ビートルズの『アイ・フィール・ファイン』にモロ影響された曲と感じられます。その『アイ・フィール・ファイン』は、ビーチ・ボーイズなどアメリカ西海岸バンドの音作りから学ぶところ大だったと思われ、それが次にバーズなどのウェストコーストのバンドにフィードバックしたりと相互影響しながら、後の西海岸主導のムーブメント「サマー・オブ・ラブ」へと繋がっていったのだと思います。

『19回目の神経衰弱』はそういう流れにある曲なので、先行曲の『サティスファクション』などよりカラッとした軽快感があるんじゃないかなーと愚考します、歌詞は別として。え、的はずれ?

この曲を入口として、前記の『サティスファクション』などに遡りつつ、リアルタイムの『黒く塗れ』などを聴いていくと、最初の印象とは違い、荒々しく不良っぽいバンド像となってきたんですね。若者の不満や苛立ちをテーマにした「元祖パンク」的な世界というのでしょうか。まあ、田舎の呑気な中学生にはさほど理解できませんでしたが。

判官贔屓的性格から、ビートルズよりはストーンズが好きでしたが、その後のストーンズは、まるで阪神タイガースのようにファンをハラハラ、ガッカリさせ続けます。1967年の「サマー・オブ・ラブ」から派生したフラワー・ムーブメントやサイケデリックムーブメントに追従して、というかこれら時代最先端の動きを敏感に取り入れ先頭を切る名曲を連発していたビートルズの真似をして、『この世界に愛を』『ダンデライオン』『シーズ・ア・レインボウ』『ランターン』などを発表しますが、まあこれがいわゆる「スカ」の連続なんですね。誰が聴いてもつまらないぞ、らしくないぞ、ということで人気も急降下、ビートルズにすっかり水をあけられてしまいます。時代がキャラと合っていなかったのでしょう。ストーンズが「髪に花を飾って」も(フラワームーブメントの代表曲『花のサンフランシスコ』の歌詞より)似合いませんもん。

「サマー・オブ・ラブ」のブームが短命で終わったことでストーンズの目が覚めたのか、1968年には、ブルースを根幹に据えたストレートなロックに回帰し、『悪魔を憐れむ歌』『ストリートファイティングマン』を含む名アルバム『ベガーズ・バンケット』を制作します。同時期にシングル『ジャンピング・ジャック・フラッシュ』を大ヒットさせ、ストーンズは復活します。

実は、私は『ジャンピング・ジャック・フラッシュ』は買って聴き、久しぶりの良い曲だとは思ったものの、フラワー・サイケ期でストーンズに対する興味を失っていたため、以後二十数年間彼らのレコードを買うことはありませんでした。つまり彼らの全盛期が始まろうとしたときに私は聴くのをやめたのです。

以前書いたように、高校生時代までに集めたレコードをほとんど処分したこともあり、私の興味は、アメリカの新しいロック、特にニール・ヤングやクロスビー・スティルス・アンド・ナッシュ、ポコなどのウェストコースト系バンドに向かいました。そしてジェームス・テーラーやジャクソン・ブラウンなどアコースティックなシンガー・ソングライター。さらに70年代半ばにはイーグルス。彼等の繊細で叙情的しかも社会性も併せ持つ音楽は、その後永らく私を支配し続けたような気がします。そのせいで70年代音楽については、残念なことにウエスト・コースト系以外あまり知りません。

まあ、私に忘れられても、ストーンズは痛くもかゆくもないわけで、ロックの帝王としてその後も君臨し続けるのでした。

私は、狭義のロックは60年代半ばから始まったとする立場で、ボブ・ディランらと並んでビートルズやストーンズがその創始者だと思っています。当時、彼らの中で最年長のディランやジョン・レノンでさえ25歳、つまりまだ歴史というものがないロックには若者しかいなかったのです。中年のロッカーなんて想像しにくかったし、ましてやロックをやる老人なんて!

I hope I die before I get old. Talking about my generation
歳とる前に死にたいぜ 俺たちの世代のことについて話そうや
                                     (ザ・フー『マイ・ジェネレーション』)

なんて、イキガッテみせることができたのです。ところが時は流れて………ジジイになってもロックやってる!歳とる前に死にたいと言ってた(歌の中ですが)フーのピート・タウンゼントも、しっかり長生きしていまだにステージに立っているし、御大ストーンズはもちろんバリバリの現役バンド。ほんの数年前にもライブを記録した映画が公開されました。その中では、65歳を過ぎたミック・ジャガーが歌い踊りながらステージ中を駆け回っています。

何なんだろうこれは。若い頃に、ミックが70になってもロックやってたら笑えるねえ、と冗談みたいに想像したことが現実になっている。そして14歳の頃には絶対想像できなかった自分の60歳が、あと10日でやってくる。遠いところにあると思っていたものが、実は近くにあったんだという感覚。んー。


還暦を目前にして少し感傷的になりました。オレは何を書きたかったのかな。ここんとこ全然話が整いません。えっ、ずっと? じいさんになってもロックが楽しめるなんて幸せだねえ、ということで今日は失礼します。

たぶん本年最後のブログになると思いますので、ご挨拶。

ご愛読下さったごく少数の皆様、よいお年を。

来年も暇があったらお読みください。








中島らも「いいんだぜ」は、「イマジン」をある意味超えていると、ダニエル斉藤は言った。

Category : 未分類
今日の朝日新聞連載「おやじのせなか」は、中島さなえでした。著名人がタイトルどおり父親のことを語るインタビューで構成されたコラムで、20年以上続いていると思います。

私は、娘が小さい頃、「有名になって、おやじのせなかの取材を受けて、うっとーしー酔っ払いだけど根は優しい父でした、とか言うてくれ。それが俺の夢や」なんて吹き込んでました。もちろん娘はフツーの無名の大人に育ち、夢は実現していません。

中島さなえの父親は中島らも。

私は、12月に入ってひょんなことから久しぶりに中島らもの曲を歌って以来、その曲や、らものことを訊かれ説明することが何度かあり、昨夜もバーでマスターに喋ったので、こりゃ次のブログテーマは中島らもかなあ、と酔っ払った頭で思いながら帰路に着いたことでした。

そしたら、今朝の「おやじのせなか」が、らもの娘さんだったので、そのタイミングに驚きました。

娘さんが語るらもとの関係は、ほぼ想像どおり。家に居つかず、たまに居ても酔っている父親との間にはずっとベールがあったといいます。それが父親のバンドにコーラスで参加するようになり、次第にベールが取り払われていったそうです。バンドのときしか一緒にいられないので誘ってくれたのだろうと彼女は言います。わかるよねえ。

知らない方は、ここまで読んで中島らもをミュージシャンだと思われたでしょうが、彼の本業は作家です。
代表作を一つ挙げるなら『ガダラの豚』。前半は、笑いを伴った爽快なインチキ宗教暴き。中盤からは舞台をアフリカ、日本と移して、呪術集団と死と血の臭いに満ちた凄まじい戦いを繰り広げるという、圧倒的バイオレンススペクタクル小説です。呪術や薬物、原始性、闇などに関する中島らもの嗜好性が思い切りぶち込まれた傑作です。文庫本だと三冊に分かれている大長編。

中島らも/ガダラの豚_


中島らもを知ったのは、25年以上前。テレビのバラエティー番組で観たのが最初でした。度の強い眼鏡をかけた長髪の痩せた男がもちゃっとしたスローモーな関西弁でアホでオモロイコメントをしていて、それがまだコピーライター時代の中島らもでした。ユーモアにあふれた関西ネタエッセイで次第に知名度を上げ、朝日新聞の『明るい悩み相談室』の解答者として全国区の人気者になります。「僕は、普通の人なら飯も喉を通らないはずの窮地に立たされても、いつでも飯が美味いのです。友人には、お前には脳みそが無い、といわれます。どうしたらいいんでしょう」などという悩み相談に、らもが解答していきます。どんな答えだったか忘れましたが、あほな解答だったことは確かです。初期の雑文集『たまらん人々』では、思ったことが全部口に出てしまう「ダダモレ」のオバサンを描いたお笑い台本が、むっちゃ面白かった記憶があります。

その後、関西ネタは封印し、作家の看板を揚げ小説中心に移行します。アルコールによる酩酊状態から力を得て書きなぐり、膨大な仕事量をこなすというスタイルを続け、やがて彼はアルコール中毒となります。その破滅的な体験を描いたのが『今夜すべてのバーで』という作品。傑作です。

また、らもは「リリパット・アーミー」という劇団も立ち上げ、座付き脚本家・役者としても活躍します。創設メンバーのわかぎゑふは、その後劇団の代表、中島らも事務所のマネージャー、創作のパートナー、愛人となり、らもは妻子の居る自宅に帰らず、わかぎと暮らすようになります。そのあたりの愛憎については、妻・中島美代子の自伝『らも』に生々しく描かれています。

中島美代子/らも_

美代子によると、たまに家に居る時は、創作に詰まると妻に暴言を吐き暴力をふるうことがよくあったそうで、子供達は怯え、らもを嫌っていたようです。美代子も外に愛人を作り家庭は崩壊状態となります。やがてらもはアルコール中毒から重度の躁うつ病になり、支離滅裂な言動、激しい、視力低下ほとんど歩けないような運動障害も出てきます。こうした危機のおかげで、らもは自宅に戻り妻子と再び暮らし始めます。美代子はらもの介護をしつつ、ほとんど目が見えなくなったらもの口述筆記をしたりで、夫婦は新婚当時の親密さを取り戻したそうです。その当時の暮らしの様子はNHKのETV特集で放送され、私も見ました。40台なのに90歳の老人のようならもの姿は強烈でしたが、そこには静かで穏やかな諦観のような空気が満ち、かすかに感動を覚えた記憶があります。

やや体力も回復した1990年代後半から、らもはロック・バンドを結成し、かなり活発にライブを行うようになります。

中島らも/ロッキンフォーエヴァー

オフィシャルで入手できるたぶん唯一のライブ映像がこれです。オリジナル歌詞の詩集とDVDがセットになった、書籍扱いのものですが、この中に畢生の名曲「いいんだぜ」が入っているのです。私が先日歌ったのはこれ。

彼はあるとき、いわゆる差別語として自主規制している言葉が増え続けていることについて編集者と議論となります。このままでは自主規制用語の量は分厚い辞書ほどにもなり、文学の表現も成り立たなくなるというと、編集者は、それでいいじゃあありませんか、と言ったそうです。こうした風潮への抗議の気持を込め、彼は「いいんだぜ」のアタマで、差別的とされる単語を連発します。決して差別的に使用しているのではないというメッセージを込めて。

   君がメクラでも 君がチンバでも
   君がツンボでも どんなカタワでも
   いいんだぜ いいんだぜ
   いいんだぜ いいんだぜ

オフィシャル音源では、当然この部分はピー音で消されています。しかしYouTubeにアップされた中には、そのまま歌われているのがあり、こうして歌詞を知ることが出来ます。中島らもはいいんです。覚悟をもって、差別的とされる言葉を発しているのだから。反吐が出そうになるのは「いいんだぜ」をコピーしてそのまま歌っている幾つかの素人の画像です。そこには何の説得力も無い、覚悟も無い、薄っぺらな汚なさあるだけです。お前らには背負えないよ。

私にも背負えない。だから、この部分は歌詞を変えて歌っています。変えてもこの歌の素晴らしさは損なわれません。これはジョン・レノンの『イマジン』に匹敵する大きな愛の歌なんですから。
この歌詞の後半。

   君が黒んぼでも 君がイラク人でも
   君が北朝鮮人でも 君が宇宙人でも
   いいんだぜ いいんだぜ
   おれはいいんだぜ Hey Brother 君はきょうだい

上掲DVDのラストに入っている「いいんだぜ」ライブバージョンが名演です。らもの歌唱もバンドの演奏もゲストの石田長生のギターも熱い。そしてコーラスのさなえもいい顔して歌っています。なぜかスティーブン・セガールの娘がいて感極まってさなえに抱きついたりしてます。


今日の「おやじのせなか」を読んでから、このシーンを思い出すと、さなえの気持がわかるような気がして、すこしウルッときてしまいます。

中島らもの最期を書いておかなくちゃ。
以前から、階段から落ちて死んでしまうなんてマヌケな最期もいい、などと発言していたらもは、2004年7月15日深夜、神戸のライブの打ち上げを終えて帰ろうとして、本当にライブハウスの階段から落ちて頭を強打、脳挫傷を起こし、意識不明となり、自発呼吸も出来なくなります。手術するも回復せず、同25日、本人の日頃の意思に従うかたちで生命維持装置が外され、永眠してしまいます。

最後にさなえの語るエピソードをひとつ。高校1年の頃、バンド練習に参加したら、らもが酒飲んでだらーと練習するので腹が立ち、帰りのタクシーの中で意見しました。するとらもは

   「キミは全然わかってない。練習とか技術とかじゃなくて、ロックは殺気やから」
    自信満々なんで、何かそんな気もしてきたら、
   「おとうさんおなかすいたからうどん食べて帰るわ」って1人で降りていった。
   「うどんて。全然殺気ないやん」て。

ええボケとツッコミや。



本日もまとまりのない文章失礼しました。





『スマイル』は、本当に笑顔をくれた。

Category : 1960年代/音楽
ビーチボーイズ・スマイルとデラックス


ビーチボーイズの『スマイル』が出ました。

うかつなことに、新聞で初めてそれを知ったのですが、最初は、ウソやろ、スマイル関連の未編集テープがコレクターズアイテムとして発売されただけじゃないの、と思っていたら、なんと、アルバムとして完成した『スマイル』が今月発売されたというのです。ちょっと、いや大変驚きました。

んー、興味ない方には、何のこっちゃと思われると拝察いたしますが、これは音楽界の「大事件」であり、私にとっても感慨深いものがあるのです。どういうことかというと――。

私が生まれて初めて購入したLPが、ビーチボーイズのベストアルバム『ビーチボーイズ・デラックス』。1967年、高校1年の夏でした。大ヒット・シングル『グッド・ヴァイブレーション』を目玉にした日本編集のアルバムです。このアルバムは高校生の間中ほんとに聴き倒し、いまでも全曲を1コーラスは空耳英語(出鱈目ということ)で歌えます。

このアルバムの解説文に、次に発売予定シングルは「英雄と悪漢」であると紹介されています。そしてこの曲を含んだ次のアルバム『スマイル』が程なく発売される予定で、本国アメリカではラジオコマーシャルが流れ、アルバム・ジャケットまで完成していました。

しかしこのアルバムは、発売延期を繰り返しながらついに完成せず、1967年内に制作中止が決定され、膨大な量の未編集録音テープがお蔵入りしてしまいました。

それが、紆余曲折を経て、今月(!)発売されたのです。

その『ビーチボーイズ・デラックス』と今月発売の『スマイル』を並べて撮影したのが上掲写真。この2枚、本来なら数ヵ月の間隔で発売されていたはずなのです。それが44年もかかっちゃいました。44年というと、コーガンの美少年(私のこと)が白髪混じり老斑満開の還暦男になってしまう年月なんです。なんという悠長な話じゃ。

44年の間に、膨大な量の「スマイル伝説」が積み上げられてきました。
『スマイル』が完成されていたとしたら、それはどんな内容になっていたのか、ビーチボーイズ=ブライアン・ウィルソンがそこで何を創造しようとしていたかについて、幾多の推理がなされ、議論が飛び交い、想像が広がっていきました。その数の多さは、気が遠くなるほどです。「スマイル専門」の研究者もいるそうです。
「音楽史上もっとも有名な未完成アルバム」とも呼ばれてきて、完成形が存在しないアルバムだからこそ、多くのファンが想像の翼を羽ばたかせてそれぞれの『スマイル』を描いてきたのですが、それが現実に発売されてしまいました。マニアックなファンの心境やいかに。これから頻出してくるだろう「スマイル論評」が楽しみです。


それにしても、なぜ1960年代の、いちポップバンドの未発売アルバムが今になって発売され、そのことが世界的な話題を呼ぶのか。それは、ビーチボーイズというバンドの特異性と、天才といわれるブライアン・ウィルソンの創り出す優れた音楽、彼を次々と襲う不幸、波乱万丈の人生などが、とても興味深く壮大な物語であるからでしょう。ロック伝説として有名なブライアンとビーチボーイズの軌跡を、拙い文章で少し辿ってみましょう。


ビーチボーイズで一般にいちばん知られている曲は『サーフィンUSA』でしょうか。
1960年頃、アメリカ西海岸の若者の風俗から生まれたサーフィン・ホットロッド・ミュージックがブームとなり、海とクルマと女の子をテーマにした陽気でお気楽な音楽を奏でるアマチュアバンド(自宅のガレージで練習することからガレージバンドと呼ばれる)がバブルのようにたくさん生まれました。
ブライアン、デニス、カールのウィルソン3兄弟と従兄弟のマイク・ラブ、ブライアンの友人アル・ジャーディンで結成されたビーチボーイズもその中のひとつでしたが、彼等は他の素人バンドに比べて抜群にハーモニーが上手くアンサンブルがしっかりした、飛びぬけた存在だったようで、まもなくプロデビューします。何曲かのサーフィンソングのマイナーヒットの後、チャック・ベリーのロックンロール曲にオリジナルの歌詞をつけ、軽快なコーラスアレンジを施した『サーフィンUSA』の全米大ヒットを放ちます。

 ♪もしアメリカ中のどこにでも海があったら
  誰もがカリフォルニアみたいに サーフィンをやるだろうね
  みんなバギーパンツにサンダルはいたボサボサ頭で
  サーフィンUSAさ
  

これが、ビーチボーイズのパブリックイメージを決定付けました。白いチノパンツとストライプのシャツのユニフォームで、海と太陽、学校の放課後、車や女の子など、ティーンエイジャーの関心事を歌う爽やかなバンドとして、次々とヒット曲を放ちます。ビートルズが突如ブレイクした64年から始まったブリティッシュ・インベイジョン(イギリスのバンドによるアメリカヒットチャートの席巻)に対抗できる唯一のアメリカバンドとも言われていました。

ビーチボーイズの曲のほとんどを作曲しプロデュースしていたのが、ブライアンウィルソン。人気バンドとしてハードなツアーをこなし、マネージャーである少々異常な父親と、営利至上主義のレコード会社に圧迫されながら、ほとんど独りで、超大物バンドとなったビーチボーイズの根幹を支えます。ビートルズで言えば、ジョンとポールとジョージ・マーティンの役割を独りでこなしていたことになるのでしょうか。

ハードな日々の重なりの結果なのか、ツアー中の飛行機の中でついに、ブライアンの精神はパニックを起こしてしまいます。そしてそれ以降、ライブ・ツアーに出ることを止め、スタジオ作業に専念することになります。

そんな折、ビートルズの『ラバー・ソウル』が発表されます。
このアルバムは、メロディーやリズムそして歌詞の斬新さ、実験性に満ちた画期的なものでした。シングルヒット曲とおざなりな埋め草的な楽曲で構成された、物好きなファン向けのレコードという位置づけだったそれまでのアルバムに反し、『ラバー・ソウル』は全てクオリティの高い楽曲のしかも全て新曲で構成され、それらは(イギリス本国では)シングル・カットもされず、アルバム中心で自分たちの世界を表現していくという現在のロック音楽発信形態の、起源となったアルバムでした。

ストライプシャツで南カリフォルニアのティーンエージャーの風俗を歌うポップバンドからの脱却を模索していたをブライアンは、『ラバーソウル』に衝撃を受けます。
自分が創りたいのはこういうアルバムだ、と思ったブライアンは、『ラバー・ソウル』を超えるアルバムを創ろうと、『ペット・サウンズ』のレコーディングにとりかかります。
ビーチボーイズのメンバーがワールドツアーに出かけている間に、詞のパートナーにライターのトニー・アッシャーを据えてアイデアを伝え、スタジオ・ミュージシャンを集めて演奏を次々と録音し、ガイドボーカルを入れて曲のほとんどを完成させてしまいます。傑作アルバムができたと彼は確信しました。
ツアーから戻ってきたメンバーには、完成した曲にブライアンの指示通りにボーカルを入れる作業しか残っていませんでした。しかもこれらの曲にはビーチボーイズに定番の海も太陽もクルマも出てこず、内省的な心情が歌われているばかりで、曲調もビーチボーイズのイメージに反した暗いものでした。
これらのことにメンバーは反発します。とくにマイク・ラブは「こんな曲を誰が聞くんだ。犬か。」と罵詈雑言を投げつけたといいます。

 ♪自分がとけ込める場所を探し続けているんだ
  だけど僕は思っていることを
  口に出すことができない
  いつまでも付き合えるような人たちと
  何とかして知り合いたいと
  僕は必死になっているんだ

                  (「駄目な僕」)


『ペット・サウンズ』は、大方のl危惧通り、それまでのアルバムに比べて売れ行きは芳しくはありませんでした。太陽も海もキャッチーなメロディーもでてこないビーチボーイズの歌に、ファンもレコード会社もメンバー自身も戸惑っていました。私もしばらくは、とっつきにくい退屈なアルバムだと感じていたものです。現在では、60年代ロックで最も優れたアルバムと誰もが認める超名盤で、全世界で累計900万枚も売れていますが、同時代にはすんなりとは受け入れられませんでした。

ブライアンは、このことにひどく傷つきましたが、創造意欲のスイッチが入りっぱなしになっていた彼は、さらなる高度さらなる深度を目指して、次のアルバムの制作に着手します。
今度は作詞家として、ヴァン・ダイク・パークスを迎え、彼との協同で、『ペットサウンズ』におけるパーソナルな精神性から、視野を広げアメリカ開拓史にまで遡ったアメリカの歴史までを織り込んだ、「アメリカへの壮大なトリップとユーモア」「神に捧げるティーンエイジ・シンフォニー」(ブライアン)を創ろうとします。『ペットサウンズ』以上の傑作を創るべく、ドラッグの力を借りてレコーディングにのめり込みますが、アイデアの断片が積み重なるばかりで、何カ月たっても曲はなかなか完成しません。ブライアンの奇矯な行動も目立つようになります。

そしてここでも、マイク・ラブが反発し、歌詞の意味を説明せよと迫って、ヴァン・ダイクが詩の講釈などできないと答えると、「本人に説明できないような歌詞を俺たちに歌わせるのか」と激怒したといわれます。
進まぬプロジェクトに嫌気がさしていたヴァン・ダイクは、このことが引き金となり、ブライアンの元から離脱してしまいました。

ブライアンは、ヴァンダイク抜きでレコーディングを続行しますが、業を煮やしたレコード会社は『スマイル』の制作中止を決定してしまいます。レコーディング開始から10ヵ月後のことでした。

そして、ブライアンはドラッグによる精神破壊が進行し、以後20年もの間、半ば廃人状態となり自宅に引きこもります。

『スマイル』となる予定だった曲の何曲かは、残りのメンバーにより手を加えられて完成され、その後数枚のアルバムに切り売りのかたちで収録されますが、ブライアンが本来目指していたものとは別の作品になっていました。

しかし信じられないことに、20年後の1988年、懸命のリハビリと周囲のサポートにより、ブライアンは奇跡の復活を遂げます。精神も体力も徐々に回復して、やがて世界ツアーをこなすまでになりました。そのなかで、『ペット・サウンズ』全曲ライブ演奏ツアーが企画され、大絶賛されます。やがてその流れは『スマイル』へとたどり着き、2004年、ブライアンはついに『スマイル』を完成させ、ライブ演奏発表し、さらに新録音によるソロアルバムとして発表します。

これで、長い長いスマイル伝説も終わったと思われました。しかし、まだ続きがありました。

それは、誰もが望みながら不可能と思われていた、1966~67年に録音された音源で「ビーチボーイズの『スマイル』」を完成させるというプロジェクトです。優れたスタッフと最新のテクノロジーを駆使し、ブライアンとマイク・ラブ、アル・ジャーディンの監修の元、ビーチボーイズの『スマイル』は、制作開始から44年目に完成しました。
少年の頃から一緒に歌ってきた2人の弟、デニスとカールはすでにこの世にいません。

 ♪波が立った
  潮の流れに乗れ
  さあ若者に混じって激しく
  時には跳ねることも
  
  僕は素晴らしい歌を聴いた
  子供たちの歌を
  子供は…… 大人の父なんだ
           
                 (「サーフズ・アップ」)


「そう、だから僕は笑ってみせる。カールとデニスが今ここで、この瞬間を共有できないとわかっていても、涙をふいて僕は笑ってみせる。そして願う。どうかこの音楽で、君も笑顔になりますようにと。それが昔、僕がこれを書いた理由だから」(『スマイル』に寄せたブライアン・ウィルソンの言葉)




各種資料を読みながら、そして『スマイル』を聴きながら、何日間かに渡ってこれを書いてきました。その間中、じんわりとした幸福感に包まれていた気がします。『スマイル』は44年遅れても世に出るべき美しい作品でした。こういうことがあると、人生も捨てたもんではないぞ、と思えます。
これを伝えられる表現力の不足にもどかしさを覚えつつ、長い『スマイル』編を終わります。







芥川と柳ジョージが坂道で

Category : 1970年代/音楽
音楽や小説が心の中でシーンと結びついていて、あるシーンに出会うとそれらが決まって思い出されるってことがあります。

昨日は、久しぶりの休日。先週末はB-1グランプリ出展で姫路へ遠征したりして、けっこー老骨に鞭打ったんで、ゆっくり骨休めでもすればいいものを、あんまりいいお天気だったので、太平洋の水平線が望めるYスカイラインにジョギングに出かけました。

休みの日の朝は10kmくらいは走るようにしているのですが、現在の職場では勤務シフトで休みが平日になることが多く、みんなが出勤・登校している時間帯に、のんびりジョギングするのは何か後ろめたいというか、知り合いに「きょうは休み?」なんて訊かれたりするのもメンドクサイから、なるべく人々が通らない農道や裏道を選んで走っています。それでもちょくちょく出合ってしまうので、まず知り合いに遭遇することのない必殺コースとして最近重宝するようになったのが、Yスカイラインです。

ここは、80年代の人気クルマ漫画『シャコタンブギ』で公道バトルの舞台として登場する道路で、連載当時から四半世紀を経た現在でも「聖地」として訪れるファンがいるようです。でも生活道路ではなく観光地化に失敗した地域を通る観光道路のYスカイラインにクルマの影はまばらです(ここまで書くのならイニシャルじゃなくちゃんと名前を出せよ、と自分にツッコミたくなりますが、たとえバレバレでも自分の周辺は地名も含め匿名でやるというというのを原則にしてますので)。

自宅からクルマで15分くらい走り、スカイライン内の武市半平太像が建っている広場まで行きます。昨年の『龍馬伝』ブームの時でさえ、蚊帳の外状態で一人取り残され、訪れる人もわずかだった武市半平太像。昨日も着いたとき広場には誰一人いません。時折トイレ休憩のクルマか、コーナーを攻めに来るバイク乗りが立ち寄るくらい。ここにクルマを置いて、6kmほど東に走り折り返してくるのがジョギングコースです。折り返し場所のすぐ手前には、朝青龍、琴奨菊、横峯さくら等の出身校として有名なM高校への入口があります。でもやっぱりクルマもめったに通りません。

リアス式海岸の海岸線に沿った曲がりくねった山道で、平坦な部分がほとんどなく、道はしつこいくらいアップダウンを繰り返します。これがキツイ。行きに長い坂を下っていると「帰りはここを登らないかんのか」と思って気が重くなったりします。

ここからやっと本題。

そんなときによく思い出すのが、芥川龍之介の『トロッコ』という短編です。中学1年生の国語教科書で読んだだけで45年以上読み返したことはなかったのですが、主人公の少年がトロッコを押していて、登り坂があるとその分だけ下り坂があるんだと思ったりする部分を、坂道だらけのYスカイランを走るようになって、頻繁に思い出すようになりました。


蜘蛛の糸


細部はほとんど覚えていなかったので読み返してみようと、先日ブックオフでついで買いしてきました。昭和以前の名作古典といわれる本を買ったのは十何年ぶりでしょうか。
少年の頃観た映画や読んだ小説を、大人になってから鑑賞しなおすと「えっ、こんな話やったが」と、ずっと抱いてきた印象との違いにちょっと戸惑うことがあります。
この『トロッコ』も、トロッコを夢中で押しているうちに思いがけなく遠いところまで来てしまい、不安に駆られながら家路を急ぐというのがストーリーではありますが、少年期の淡い思い出を描いたそれなりに明るい雰囲気の作品というイメージをずっと持ち続けてきました。
ところが、45年ぶりに読んでみると、かなり暗めの作品でした。大人になった主人公が、少年の日に体験したあの恐怖と不安の気持ちと現在の境遇が同じように思えると述懐するのですが、そこには後年自死を選ぶ芥川の鬱屈がすでに意識を覆い始めているように感じられます。そんなこと今更持ち出すまでもない文学史の常識なのでしょうが、私には意外でした。まあ、「坂」しか覚えてなかった底の浅い接し方なもんで当然かも。


Yスカイラインで思い出すもうひとつの定番は、柳ジョージ&レイニーウッドの『青い目のステラ1962年夏』。

柳ジョージ30th


ジョギングをしていると道路のすぐ脇から100m以上の断崖になっている箇所が時折現れ、そこからは太平洋の眺望が広がります。水平線までずっと見渡せて、きらきら陽光を反射する海にぽつりぽつり船影が見えると、坂道で苦しんでいても、

 ♪沖を通る貨物船眺め テネシーワルツ歌おう
  うまいもんさ あんたに教わった
  ちょっといかしたステップ

なんてフレーズをヒイハア言いながらくちずさんでしまいますねえ。
この曲と『フェンスの向こうのアメリカ』の2曲は、本牧米軍ハウス(横浜海兵住宅地区)近辺で少年期を過ごした男の郷愁をテーマにした私小説的な内容の歌詞が秀逸で、十代最後の二年間を横浜で暮らした私自身の思い出と相俟って、もうたまらなく好きな曲です。
ほかにも、『さらばミシシッピー』『酔って候』『コインランドリー・ブルース』など、柳ジョージ&レイニーウッドには私のカラオケ愛唱曲が多いですね。

残念ながら、柳ジョージ氏は本年10月10日に永眠してしまいました。死因は過度の飲酒が原因とみられる腎不全。んー、ブルースな死に方やなあ。


それと、あと一カ月ちょっとで大掃除の時期がやってきますが、寒い季節に掃除をすると、たぶん、幸田文の『あとみよそわか』という随筆を思い出して、無性に読みたくなったりするはずです。

それでどうしたといわれても困りますけど、そんなふうに音楽や文章を思い出すのは楽しいんですよねえ。


野外フェスの原点『ウッドストック』の映画はいろいろ楽しめたのだ

Category : 1970年代/映画
野外で行うコンサートは主催側にとって、屋内でのそれよりやり終えた後の充実感というか達成感が何倍も大きく思えます。それは、会場設営などの準備や天候のことなど、しんどさやリスクの大きさと比例しているようですね。今年のように晴天のもとで開催できて、多くのお客さんが来て満足してもらえるともちろん嬉しいのですが、たとえ悪天候などで運営に苦労して、「なんでこんなしんどい野外をやりゆうがやろ」とそのときは思っても、後かたづけをしてビールで乾杯すると、「よし、来年はもっと入念な準備をして晴天を引き寄せて、気分の良いイベントにするぞ」と、再びやる気が出てくるから不思議です。長距離ロードレースを走り終えた気分と共通するところもあります。

さて、私の世代(団塊弟世代?)にとって野外フェスといえばウッドストック。フジロックではありません。ということで、前回の仕切り直しで、野外フェスの代名詞『ウッドストック・フェスティバル』についての思い出をたどってみたいと思います。


ウッドストック・ビデオ

(映画『ウッドストック』1994年のディレクターズ・カット版のヴィデオジャケット)

ウッドストック・フェス(正式名称『ウッドストック・ミュージック&アート・フェア』)が開かれたのは、1969年のことでした。当時私は土佐の小さなマチの地元高校3年生。唯一の都市といってよい県庁所在地へ出かけることもめったにない田舎モンでした。なので、ウチで購読していた地方新聞で、アメリカのニューヨーク近郊で行われた野外コンサートに数十万人が集まった、という記事を読んだときも、へえアメリカというのは何でもスケールが大きいモンだなと思った程度で、そんなに多くの人が集まったことの背景や意味についてはとくに考えませんでした。

まあそれでも、ニュースなどで頻繁に反戦デモやら大学封鎖やらのことが報じられるし、東大全共闘と機動隊の安田講堂攻防はテレビ中継までされたので、ボーッとした私でも、いまが、若者たちが社会に怒り闘ったりしている激動の時代らしいということは感じて興奮したりしていました。そういえば、柴田翔の『されどわれらが日々』に感動して、よくわからないがオレはこのままじゃいけないなんて気負って、文学青年くずれのシニカルな雰囲気でけっこう気に入ってた国語のシマサキ先生にそのキモチをぶつけにいったこともありました。『されど~』は現在では、なんでこれにカブレたんだろういやあお恥ずかしい若気の至りですな的小説の代表として有名で、シマサキ先生にも、まああれは小説のハナシだからみたいに苦笑されたことを覚えています。

当時(1960年代後半)の世界は、第二次大戦終結後のもっとも大きな激動期にありました。欧州では「プラハの春」とチェコ事件、パリ5月革命などが起こり、多くの学生や労働者が政治的行動に参加しました。アメリカではベトナム戦争の激化により、アメリカ兵の戦死者数が増大し、さらにアメリカ軍によるベトナム民間人虐殺事件なども多発したため、反戦運動が拡大しました。また、公民権法施行以後も解消されない人種差別、キング牧師の暗殺などの要因により多くの都市で暴動が頻発していました。運営民主化などを掲げた大学紛争も全土に広がっていました。

そんな時代状況を背景に、既成の体制や文化を否定するカウンターカルチャーが若者の間で広がっていきました。その中から、平和と歌を愛し物質文明から距離を置いて自然の中で自由に生きることをモットーにした「ヒッピー」と呼ばれる人々が現れ、1967年には「サマー・オブ・ラブ」という一大社会現象に発展します。彼らは反戦という政治的意志表示、ドラッグ使用による精神的解放、ロック音楽、コミューンでの共同生活、フリー・セックスなどをライフスタイルとしていました。


こうしたカウンターカルチャー=ヒッピームーブメントがピークに達しようとしていた時期に開かれたのが「平和と音楽の3日間」をキャッチフレーズとした『ウッドストック・フェス』だったのです。主催者の思惑を遙かに超えた数のヒッピーやその予備軍、シンパ、そしてただのお調子者たちがニューヨーク近郊の会場に押し寄せます。その大半の人々は入場券を持たず、会場を仕切るフェンスを壊してなだれるように侵入したため、主催者は入場料徴収をあきらめ、無料コンサートに切り替えます。

予想の10倍を超える数十万人の人々を迎える体制がなかったため、食料不足、トイレ不足などで環境が悪化し、災害地域に指定されるほど混乱します。しかし事態の深刻さに反して略奪や暴力沙汰などはほとんど発生せず、、奇跡的に、平和的な雰囲気のうちにフェスは終了します。そんなことから「愛と平和の祭典」というイメージが確立したようです。実際の会場は地獄さながらだったという証言もあるそうですが。


ウッドストック表

ウッドストック裏

(サントラ盤『ウッドストック』ジャケット 上:外面 下:中面三連見開き)


さて、映画『ウッドストック』は日本ではフェス開催の約1年後の1970年7月に公開されていますが、自分が観たのがいつ頃だったのか、覚えていません。おそらく公開直後ではなく1~2年経って名画座などに降りてきてからだと思います。以来、機会あるごとに何度か観ています。ビデオなんて無い時代ですから、上映映画館を追って観に行くのです。当時は、欧米のロック音楽の演奏シーンをテレビで観られることはほとんどなく、もっぱら音楽記録映画が頼みの綱でした。『ウッドストック』のほか、『レット・イット・ビー』、『バングラディシュのコンサート』、『フィルモア最後の日』など、70年代前半には多くの音楽映画が制作され、動くロックスター見たさに映画館に足を運んだものです。

演奏シーンがあればそれで満足ですから、どの映画も楽しかったのですが、やはり『ウッドストック』が格別に魅力的でした。開放的な雰囲気が横溢したライブ会場、地平線まで続く大観衆にミュージシャンも興奮して熱演を繰り広げます。ジョー・コッカーが、今言うところのエアギターを弾きつつ身体をフラフラさせて絞り出すように熱唱する『心の友』(ビートルズ『With a little help from my friends』のカバー)など、いま観ても感動モンです。

そしてもう一つ、青少年のココロ、いや目を奪ったのは、レコードジャケット左にもあるように、多くの若者がスッポンポンになって湖で遊ぶシーンでした。これは衝撃的。当時の日本ではあり得ない光景でしたし、演技でないシロート外人さん(仕込みの疑念もありますが)のハダカにお目にかかったのも初めてでしたので、これはウレシイ映像でしたねえ。ちょっとこれはという体型のヒトもいましたが。

まあこうしたシーンは例外として、当時は演奏以外の部分(観客ルポなど)は余計なものとして煩わしく感じられたのですが、今回久しぶりに見返してみると、そこがとても興味深くまた感慨深く思えました。数十年の時を経て、ドキュメンタリーとして見る視点が自分にできたことや歴史的資料としての価値が高くなったことによるのでしょう。

てなことを書き綴っていたら、2009年のウッドストック40周年に未公開映像を大量に追加して発売された4枚組みDVDが観たくなって、いまさっきAmazonで購入ボタンをクリックしてしまいました。やれやれ。

烙印を消せ

Category : 1970年代/音楽
更新をサボっていて、久しぶりに自分のブログを覗いたら、トップページにスポンサーサイトが表示されだしていました。FC2では、1ヶ月以上更新しないとこうなるんですね。休眠ブログの烙印みたいで恥ずかしいような腹立たしいような。

なんやかんやと忙しくて、頭の中がトッ散らかってしまい、書くことができんようになっていました。なんせ脳内メモリーが64MBくらいしかありませんから、いろんなことを並行的に処理できないのです。

なんで忙しかったかというと、私たちが主催している音楽イベント“SU.SU.MU.FES”があったからです。

これまでは実行委員長として、まあ半ばお飾り的に居ればよかったところもあったのですが、今年は裏方の事務局に回ったため、仕事量が少し増えてしまいました。それを開催わずか1ヶ月前から準備に取り掛かるという杜撰さだったのですから、状況は推して知るべしでしょう。
いやあ、よく開催できたもんだ。スタッフの皆さんのおかげです。


susumu2011_1.jpg

フェス本番中、正午頃のようす。


ウッドストックのジョンセバスチャン

こちらは、前回触れたジョン・セバスチャン出演時のウッドストック・フェス。同じ構図の写真なので載せてみました。

ちょっと負けてる?


実は、今回はこのウッドストック・フェスや全日本フォークジャンボリーなど、1970年前後の野外フェスについて書き始めたのですが、けっこう書き進んだところで操作を誤り、データを消してしまいました。久しぶりのブログでリキミすぎたのかなあ。今日のところは書き直す気力がないので、とりあえず休眠サイトの烙印を消すために、このままアップします。






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Author:オジイ川端

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